昨日に引き続き仏教に関する話題を。
【六眼】というものがあります。
密限、漠眼、童眼、洞眼、慈眼、自在眼の6つのものの見方です。
1つを論理的であったり解析的にものを見てみる。
漠然と見てみる。
子どもの目で見てみる。わくわく。
色んなものに詳しく。
思いやり、人情、義理を持って。
これら5つを時と場合によって出せる。
今の世の中を見てみると
童眼であったり慈眼といったものの見方の機会が少なく
密眼の出番が多いような気がします。
僕自身、普段から常にこの六眼を意識し続けることが
出来ているかどうかと問われれば出来てないです。
でもやはり
今、自分がどういったものの見方をしているのかを
知り、そして人や自分自身と交流していきたいです。
非まじめに、子どものような視点を持って生きたいなぁ。
2014年3月30日日曜日
2014年3月29日土曜日
まじめ = 不まじめ 三性の理
素敵な本屋さんでの学びの会に参加してきました。
何かを探求する人々が辿り着く場所
それが【仏教】
仏教は完璧な思考体系らしいです。
ダライ・ラマは言います。
あらゆる宗教は、同じことを伝えようとしている。それは、愛の優しさ、そして正直さなのだ。
愛の優しさに関してなら何となくであるけれども把握できていました。
しかし
『正直さ』に関しては意外な気付きでした!
つまり
ダライ・ラマは
どんな思想や哲学、宗教、そして優しさや愛でさえ
押し付けられるとそれは障害となる、といいたいのでしょう。
仏教が仮に完璧な思考体系であったとしても
そこにとらわれることは
自身にとっても、また他人にとっても良くないのでしょうね。
さて、仏教が説くものの中に
善・無記・悪の『三性の理』というものがあります。
近代はデカルト以降
物事を2つに分けて考えるようになったと言われています。
つまり
善・悪、幸・不幸、正しい・正しくないなど
しかし
『三性の理』ではそれを明確に否定しています。
しかもそのようなことを
『二見に堕す』とまでいっています。
対立概念の一方を良しとし、もう一方を排除する姿勢はどうか、と。
では
【無記】とは何なのでしょう。
まず、これを実体験をもとに伝えることは難しいです。
何故ならこれを会得するために禅では何年も修行するからです。
そのようなものを修行をしたこともない僕が述べるのですから。。
しかし、今の僕でもそのようなものが存在している
ということを伝えることは出来ると思います。
体験として伝えることは出来なくとも
知っている、ということは大切なことだと思います。
【無記】とは、価値を堕落させたときにそこにあるもの。
図で表すと
.
そして
つまり
善=悪であり、小=大であり、幸=不幸である。
この=を表す言葉として
【即】というものがあります。
般若心経の
色即是空、空即是色の【即】です。
【即】とは上の図でいう【=】
そして
【=】として見たとき
価値が堕落され【無記】となる。
これが今の僕が言葉で表現出来る【三性の理】の限界です。
なので
まじめ=不まじめ
なんです。
では
それの無記とは…
【非まじめ】
今日の学びでした!
ただ、これは意識しないとそういう状態ではいられないですね。
二元論、分けて考える癖が身に付いているので。
日々、精進やー。
何かを探求する人々が辿り着く場所
それが【仏教】
仏教は完璧な思考体系らしいです。
ダライ・ラマは言います。
あらゆる宗教は、同じことを伝えようとしている。それは、愛の優しさ、そして正直さなのだ。
愛の優しさに関してなら何となくであるけれども把握できていました。
しかし
『正直さ』に関しては意外な気付きでした!
つまり
ダライ・ラマは
どんな思想や哲学、宗教、そして優しさや愛でさえ
押し付けられるとそれは障害となる、といいたいのでしょう。
仏教が仮に完璧な思考体系であったとしても
そこにとらわれることは
自身にとっても、また他人にとっても良くないのでしょうね。
さて、仏教が説くものの中に
善・無記・悪の『三性の理』というものがあります。
近代はデカルト以降
物事を2つに分けて考えるようになったと言われています。
つまり
善・悪、幸・不幸、正しい・正しくないなど
しかし
『三性の理』ではそれを明確に否定しています。
しかもそのようなことを
『二見に堕す』とまでいっています。
対立概念の一方を良しとし、もう一方を排除する姿勢はどうか、と。
では
【無記】とは何なのでしょう。
まず、これを実体験をもとに伝えることは難しいです。
何故ならこれを会得するために禅では何年も修行するからです。
そのようなものを修行をしたこともない僕が述べるのですから。。
しかし、今の僕でもそのようなものが存在している
ということを伝えることは出来ると思います。
体験として伝えることは出来なくとも
知っている、ということは大切なことだと思います。
【無記】とは、価値を堕落させたときにそこにあるもの。
図で表すと
.
そして
善=悪であり、小=大であり、幸=不幸である。
この=を表す言葉として
【即】というものがあります。
般若心経の
色即是空、空即是色の【即】です。
【即】とは上の図でいう【=】
そして
【=】として見たとき
価値が堕落され【無記】となる。
これが今の僕が言葉で表現出来る【三性の理】の限界です。
なので
まじめ=不まじめ
なんです。
では
それの無記とは…
【非まじめ】
今日の学びでした!
ただ、これは意識しないとそういう状態ではいられないですね。
二元論、分けて考える癖が身に付いているので。
日々、精進やー。
2014年3月18日火曜日
時間を自らの手に 〜ムーブメント アンド メジャー〜
【時間】
明治以降に「時間」という言葉が生まれたと聞いたことがあります。
それまでは
「時」と「間」は別のことを指していたらしいです。
簡単にいうと
「時」は竹でいう『節目』
「間」は竹でいう「節目」と「節目」の『間』
暦というものは
権力の象徴ですもあります。
時間を手にするということは
直接的にも間接的にも
人を「動かす」ことが出来ますからね。
良い意味でも悪い意味でも。
今年は日本が西暦に移行して141年目。
141年前まで日本はヘリオセントリック(太陽中心)
広く世の中に浸透している暦は
グレゴリオ暦というカトリックの暦です。
140年前から日本はジオセント リック(地球中心、自分中心)
今の社会システムの根底にはこのグレゴリオ暦があります。
どちらの暦が良いか悪いかそれはわかりません。
時間の刻み方、方向性、どう動きを計るかその違いに過ぎないし
一人一人好きなものを選択すればいいし。
ただひとつ言えることは
今広く使われている暦は
自然のリズムと乖離があるということですかね。
僕は旧暦が好きかなぁ。
季節を感じることが出来るから。
明治以降に「時間」という言葉が生まれたと聞いたことがあります。
それまでは
「時」と「間」は別のことを指していたらしいです。
簡単にいうと
「時」は竹でいう『節目』
「間」は竹でいう「節目」と「節目」の『間』
暦というものは
権力の象徴ですもあります。
時間を手にするということは
直接的にも間接的にも
人を「動かす」ことが出来ますからね。
良い意味でも悪い意味でも。
今年は日本が西暦に移行して141年目。
141年前まで日本はヘリオセントリック(太陽中心)
広く世の中に浸透している暦は
グレゴリオ暦というカトリックの暦です。
140年前から日本はジオセント
どちらの暦が良いか悪いかそれはわかりません。
時間の刻み方、方向性、どう動きを計るかその違いに過ぎないし
一人一人好きなものを選択すればいいし。
ただひとつ言えることは
今広く使われている暦は
自然のリズムと乖離があるということですかね。
僕は旧暦が好きかなぁ。
季節を感じることが出来るから。
登録:
投稿 (Atom)