2014年7月16日水曜日

僕について②「熱中っていう言葉がわからなかった」

ある時

「類は友を呼ぶ」という言葉を知りました。

その時、初めて「僕の居る場所」を

「僕が何処にいるのか」ということを知りました。

教室に入り、誰と話しているのか

失礼な言い方ですけど

僕が居たそれは

僕の求めていた場所、思い描いていた場所ではありませんでした。




「僕ってこんなとことに居たんだなぁ」って思いました。

頭の中で描いていたものとあまりに離れていて驚きました。

ショックという感情はなかったんですけど

そのことに気付けなかった自分が嫌でした。

情けなくて、自分のことを知らなすぎて。

同じ頃だったと思います。

人生で初めて、人の感情のはけ口、その対象になった

という経験をしたのは。



悲しかったですね

小学生当時、両想いだった子がその輪の中に居たので。

でも、僕はそのことを誰にも相談せず

以前と変わらぬように学校に通い続けました。

そのことを今、こうして振り返ってみて

それでも普通に学校へ通っていたということを考えると

きっとそこまで大したことではなかったのでしょう。



自分の人生を自分事として歩んでいたら

変に繕った「仮面」をつけることなく

みんなと同じような「仮面」をつけた人生を歩んでいたのかな。

感情の吐き出し方、表現の仕方がわからない人間には

ならなかったと思います。

僕は自分の人生、他人事でしたね。


「心、此処にあらず」

という言葉があります。

気付けば大学生になるまで僕はずっと「心、此処にあらず」でした。


僕にとって高校生活ってほんの数秒です。

言い過ぎかもしれませんが

思い出というものが浮かんでこないことをみると

時間軸としてそんなものかもしれません。


まぁ、過去という極めて曖昧な存在をどう捉えているのか

それによって時間の感じ方は変わってくるので

一概にその「数秒」という表現をどう受け止めたら納得解を導き出すことができるのか

わからないですけど。


そんなわけで

事柄に対する思い出が僕はほとんどないのです、高校時代の。

あるとすれば

感情の思い出です。



「逃げ続けたなぁ、おいら」という思い出。

どうすれば「傷つかないか」

これが僕の判断基準だったような気がします。

もはや基準ではなく

結果「傷つかない」選択をしていた

という感じです。

ただ、それは瞬間瞬間「傷つかないもの」であって

結局、自らを深く傷つけていたんですけどね。


部活、先生、家族、そして人から

本当にたくさんのものから逃げていました。

高校時代よく、一日しか学校を休まなかったなぁ

って思います。


どこにも居場所を感じることのなかった、できなかった僕は

「日常」という虚構そのものに居場所を見出していたのかもしれません。

『ただ、こなす』

それが僕にとって日常でした。居場所でした。

演じるわけでもなく。


そして「熱中」という言葉にすら逃げてしまっていたのです。

祖父母という唯一の居場所を僕は求め

東京へと逃げてきました。

続く


〜追伸〜

「熱中」することがなくても

日常をただこなす人生も

他人事の人生も、挫折も

自分のことさえ嫌いにならなければ大丈夫なのかなぁ

って今は思います。

本当に辛いのは

自分のことが嫌いな時だから。たぶん。

まぁ、生きるって

きっとそういうことを抱えて生きていくことだから

生きることを諦めない限り

辛いことから逃れることはできないと思いますけど。

孤独や虚無感、嫉妬や絶望…。

これらの先にしか幸福はないと思うので

生きましょう、生きて生きて生きてやりましょう。

自分が自分に負けてなるものか



自分が嫌いでもいいんだよ、それが凶器にならなければ

へへっ

0 件のコメント:

コメントを投稿