2014年7月28日月曜日

ヴィジョン それは、己のすべて

前回、最後の葉書としましたが、、、

どうしてもこれだけは書き記しておきたく投稿。

僕は今、インディアンなるものにとても惹かれています。

それは

僕に在るもの

そして

僕が失ってしまったもの

僕が何故、この時代に生を受けたのか

何故、日本と形容されるこの土地に生まれたのか

己がこの命をかけ、探求すべきものは何なのか

奴隷となった僕らがかろうじて紡いでいるネイティブなるもの

それを紐解くひとつの道。

言葉、概念なんてどうでも良い。

しかし

人は言葉に依らなければ、難しい。

言葉は

力が強い故、誤ると

自らへとその刃を向ける。

言葉には

羽根がついていて

それが

あなたのもとへ飛んでゆく

そのようなもの

・・・

『大切なのは血ではなく生き方だ』

大いなる神秘は

その人にわかるように問いかける。

お前は誰だ

お前は何だ

何がお前だ

自然とは何か

地球とは何か

生とは、死とは何か



それは何処で語られるかわからない

しかし

何か重要なことが語られたことは“わかる”

・・・

今、僕がそれを語るには足りないことが多すぎる

前回の葉書でこのようなことを書きました。

【3年後のキミへ〜最後の葉書を贈ります〜Re-member】


ここに書かれていること

それが正しいかどうか、それはわからない

しかし、今この地点に在る僕にとり

違和感のない言葉が此処には書かれています。

何故、3年後なのか

何故、あのような表現なのか

たぶん、きっと…

・・・

全ては今、この瞬間の出来事

All my relations

自らに依り、その全ては経験によってのみ語られる

その孤独に、未熟さに、そして美しさに生くる

それでは

これにて

28 July,2014 風の香り。

2014年7月24日木曜日

【3年後のキミへ〜最後の葉書を贈ります〜Re-member】

今、僕がそれを語るには足りないことがいっぱい。

生きることそれ自体には

足りていないことなんて何ひとつなく

ものすごく満ち足りている
(吾唯足知)

けど

それを語るには足りないことが山ほどあるね。

仮にそれを『神秘』と名付けるならば
(ワカンタンカ)

僕は風になりたいな
(ミタクエオヤシン)

自分がどこに居るのか

そんなことはどうでもいいよ。

問われるのは『在り方』だよ。
(ヴィジョン・クエスト)

何かに追われているならば追われれば良いし

苦しいなら苦しめば良い
(自分を信じて)

笑いたいなら笑えば良いじゃん

それが自然体であるならば、きっと大丈夫。
(ソース)

もし少しでも“なんか違う”という感覚があるならば

僕らと共に

空を観よう
水に全てを委ねよう
火を媒介に語ろう
風の声を聴こう

いつか必ず、自然と身体が笑っている状態を掴めるから。
(インナーチャイルド)

自己の中にある矛盾を受け入れたとき

自分が、世界が完璧ではないことを悟り
(我知無知)

そして

世界が完璧であったことに気付くと思う。
(ワンネス)

その上で、ただ一人の人間として

普通にこの世界を生きていくことになるはずだから。
(スターチャイルド)

しかしその世界は今までとは明らかに何かが違う。

そう

キミにはもう頭がない。
(クリティカルポイント)

あるのは肚だ、その美しい肚だけがそこにある。

キミは肚で、ハートで全てを紡いでいるから
(タオ)

切り口は
禅でもインディアンでも陰陽五行でもタオでも神道でも縄文でも量子力学でも何でも良い。

なんでも良いけど

ただひとつ、ただひとつだけ。

【それでもあなたの道を行け】
(虹の戦士)

とにかく、ここで僕は終わらないし、終わらせない。
(シンギュラリティ)

最大の味方であり、超えなければならない最大の相手であるキミへ

Re-menber…再び出逢いましょう!
(ネオテニー)

All You Need Is Love...

24 July,2014 Hiro 森 大樹 

2014年7月17日木曜日

一生来ることのない将来について

こうぷらぷら生きていると

「そんなんで大丈夫?」とか「将来どうするの」とか

「今、何をしているの」とか色んなこと聞かれるんですけど

正直なところ、、

「大丈夫じゃないっすか〜、へへっ」って感じなんですよね。

別に僕は夢に生きているわけでもないし

未来を生きるわけでもないし

何をしているのかっていうものより大切なものがあると思っているし。。

まぁ、ただこのような考え方が一般的には受け入れられないのも事実なので

如何に、相手にわかりやすく納得してもらえるのか

ということは意識していかないといけないのかな、って思います。


僕らはただただ

今を感じていたい。

この世界の美しさを感じていたい。

美しさを人と共有したい。

僕らの見つめる世界

シンプルでとても美しい重層構造を共有したい。

そして

大地とともに生きる人を増やしたい。

その人がその人として

自然体を生きる、ありのままを生きる

そういった世界になれば僕らはそれでいい。



過去は智慧の宝庫

未来は矮小化された自己の最大限のイメージ

先人は僕らに智慧を語り、

後に生を受けたものは僕らに未来を見せてくれる


世界はそもそも矛盾を孕んでいて

完璧じゃないことを悟ったとき、世界は完璧だということを感じる。
わからないことをわかろうとしなくなったとき、わかるようになる。

だから

もっとシンプルに世界を覗こう

奏でよう僕らの未来を

地球に還ろう



2014年7月16日水曜日

僕について②「熱中っていう言葉がわからなかった」

ある時

「類は友を呼ぶ」という言葉を知りました。

その時、初めて「僕の居る場所」を

「僕が何処にいるのか」ということを知りました。

教室に入り、誰と話しているのか

失礼な言い方ですけど

僕が居たそれは

僕の求めていた場所、思い描いていた場所ではありませんでした。




「僕ってこんなとことに居たんだなぁ」って思いました。

頭の中で描いていたものとあまりに離れていて驚きました。

ショックという感情はなかったんですけど

そのことに気付けなかった自分が嫌でした。

情けなくて、自分のことを知らなすぎて。

同じ頃だったと思います。

人生で初めて、人の感情のはけ口、その対象になった

という経験をしたのは。



悲しかったですね

小学生当時、両想いだった子がその輪の中に居たので。

でも、僕はそのことを誰にも相談せず

以前と変わらぬように学校に通い続けました。

そのことを今、こうして振り返ってみて

それでも普通に学校へ通っていたということを考えると

きっとそこまで大したことではなかったのでしょう。



自分の人生を自分事として歩んでいたら

変に繕った「仮面」をつけることなく

みんなと同じような「仮面」をつけた人生を歩んでいたのかな。

感情の吐き出し方、表現の仕方がわからない人間には

ならなかったと思います。

僕は自分の人生、他人事でしたね。


「心、此処にあらず」

という言葉があります。

気付けば大学生になるまで僕はずっと「心、此処にあらず」でした。


僕にとって高校生活ってほんの数秒です。

言い過ぎかもしれませんが

思い出というものが浮かんでこないことをみると

時間軸としてそんなものかもしれません。


まぁ、過去という極めて曖昧な存在をどう捉えているのか

それによって時間の感じ方は変わってくるので

一概にその「数秒」という表現をどう受け止めたら納得解を導き出すことができるのか

わからないですけど。


そんなわけで

事柄に対する思い出が僕はほとんどないのです、高校時代の。

あるとすれば

感情の思い出です。



「逃げ続けたなぁ、おいら」という思い出。

どうすれば「傷つかないか」

これが僕の判断基準だったような気がします。

もはや基準ではなく

結果「傷つかない」選択をしていた

という感じです。

ただ、それは瞬間瞬間「傷つかないもの」であって

結局、自らを深く傷つけていたんですけどね。


部活、先生、家族、そして人から

本当にたくさんのものから逃げていました。

高校時代よく、一日しか学校を休まなかったなぁ

って思います。


どこにも居場所を感じることのなかった、できなかった僕は

「日常」という虚構そのものに居場所を見出していたのかもしれません。

『ただ、こなす』

それが僕にとって日常でした。居場所でした。

演じるわけでもなく。


そして「熱中」という言葉にすら逃げてしまっていたのです。

祖父母という唯一の居場所を僕は求め

東京へと逃げてきました。

続く


〜追伸〜

「熱中」することがなくても

日常をただこなす人生も

他人事の人生も、挫折も

自分のことさえ嫌いにならなければ大丈夫なのかなぁ

って今は思います。

本当に辛いのは

自分のことが嫌いな時だから。たぶん。

まぁ、生きるって

きっとそういうことを抱えて生きていくことだから

生きることを諦めない限り

辛いことから逃れることはできないと思いますけど。

孤独や虚無感、嫉妬や絶望…。

これらの先にしか幸福はないと思うので

生きましょう、生きて生きて生きてやりましょう。

自分が自分に負けてなるものか



自分が嫌いでもいいんだよ、それが凶器にならなければ

へへっ

2014年7月11日金曜日

僕について①「そこそこの努力で繋がれた自分」

ある程度、テスト前に勉強すれば

そこそこ上位の成績を取ることが出来ました。

運動神経というものも悪くなかったです。

むしろ、良かった方だと思います。

あまり苦労に触れる機会がなかった

それがきっと僕の源流に繋がる雫のひとつになっています。



今、こうして振り返ってみると

小さい頃、小学生の頃かな

そのくらいのときに何かひとつ挫折を味わっていれば

今の僕はもう少し強かったかもしれません。



強いとか弱いとかそういうものに対して

こだわりはないですけど

ただ、もう少し早く自分と向き合うことが出来たのではないか

と思うんです。



苦労に触れる機会がほとんどなかった人生だったので

特に「熱中した」ということもなく

ただ「無気力な日々」を過ごしていました。

努力を知らない人間でした。



小学生の時はそれで良かったんです

全てにおいて、結構出来たから。

ほら「足の早い子」って異性にモテたでしょ。

きっと自分に酔っていたのだと思います。

「できた」から、「できてた」から。



けど、中学生の頃からかな

環境が変わってきたのは。



僕に出逢ったことのある人は知っていると思いますが

僕、背が低いんですよね。

どうあがいても、体格差というものは埋めることができません。

徐々に今までの自分像を【維持】することが難しくなっていきました。

僕の中で自分というものの存在が消えたひとつの時期です。



少しずつ

人から注目されなくなっていきましたね。

そう思っているのは自分だけで

他の人はそんなこと気にする事柄じゃない

っていうのはわかってます。



けど、

当時の僕はそこまで想いを巡らせることは出来ませんでした。

寂しかったですけど、注目が薄らいでゆくのは

仕方のないことです。

でもそれが「挫折かどうか」と問われたら

そうではないと答えるだろうし

人もそう思うでしょう。

どうすることもできず

僕は逃げていきましたよ。



「現実」というものから

そうすれば傷つくこともないし。


逃げた先にあったものは

「好きなもの」ではあったけど
「心から好きなもの」ではなかったんです。

・桃鉄 駅を買い占め、一人勝ちをする。一人だけ億万長者になる。
・A列車で行こう 巨大な街を作る。
・パワプロ マイライフで賞を総なめし、成績も圧倒的に1位になる。

どれも「バーチャル」に頼った僕の存在の誇示です。

それもすばらしい自分であるというわかりやすい指標【数字付き】の。

続く。

2014年7月4日金曜日

エリュシオンの野は此処にある

今、京葉線の通勤快速で東京に向かっております。

蘇我駅から新木場駅まで

29分間、11駅もノンストップで驚いています。

昨日は小学中学時代に習っていた合気道の道場を約10年ぶりに訪ねました。

そして、冬季の素足マラソンのルートまで足をのばしたり

九十九里海岸までドライブしたりしました。



さて、

正直であること
素直でいること
本気になること
丁寧に見ること


そして

手放すこと
受け入れること



これらの言葉の真意とは何か

そのことを電車に揺られながら考えています。

どうやら

この子たちの真意と重なるとき

近づくとき

己の状態はものすごく心身ともに軽いみたいです。

肩の力が抜けている状態といっても良いかもしれません。

(何かに集中していて、ふと気付くと肩に力が入り肩が上がっていた、硬直していたことってありませんか。)



話が少し逸れます。

加島祥三さんが書かれた『老師 新訳』という本にざっくりと次のようなニュアンスの文が載っています。

死んだものは硬く、生けるものは水のような軟らかさがある。

さきほどの

手放すこと
受け入れること


きっとこの子たちも

そうなのかもしれません。


つまり

手放すこと
受け入れること


そのどちらも

自分の心が、その現象としての身体

硬直している場合

真のそれではない、と。



少し角度をズラすと

力が抜け、委ねた状態(結果の姿、後から形容する姿)になっているとき

それはそれ自身となり、それ自身で在る。



別の表現をすると

"境界"そのものが宙に浮かんでいる状態になっている。


正直であること
素直でいること
本気になること
丁寧に見ること



今、この瞬間に起こっている感覚や感情を正直につかまえ

素直にそのまま、ありのままを受け入れて

丁寧に意識を向ける

逃げずに、遠ざけずに本気で

そのとき

何か自分にとって大切なものが浮かび上がる。



世界は崩れ落ちず、自分と何か自分なるものが浮上していくしてくる。

これが

手放すこと
受け入れること


を詩的に捉えた姿なのかもしれない。



それをどう作り出すのか

起こるようにするのか

舞い込んでくるのか



それは今の僕にはわからない。

なぜなら

自分が経験したことがないから

ただ追体験をしているというだけなので。



では、今日も一日

心を込めて

ま、いっか

仕方ないなぁ、へへっ

と穏やかに

2014年6月29日日曜日

夢の住処は、鞄の中に

おはようございます(^^)

夢が現実感を伴っている日がここ2週間ほど続きます。

上手く言えないのだけど

なんか、、

夢が夢じゃないっていうか
夢は夢なんだけど・・・

夢の中でもうひとつ

別の人生、世界に身を置いているような感覚

以前のそれとの違いは

会話が、やり取りがとても具体的っていうこと
あと夢自体をよく覚えているっていうこと

今日起きた時に覚えている夢の一部、情景とフレーズ
・どこか旅をしている。ひとりではなく女の人とふたり
・その人をおんぶして歩いている
・祭り、露店の中を走ったりしている。何かを求めている
・小学校の友人が登場してくる
・大きいお風呂に浸かり、顔だけを出し、他の部分は水に委ねている
・何かから逃げている?誰かに追われている。
・見つかり、僕の生き方について今回見た夢で会話を交わした人たち、また過去人生において出逢った人たち、俳優の人たちが話している。生き方というか未来どう在るのかについて。
・「“ほにゃらら”は敵だ」というフレーズ
・「自分を信じて生きろ」というフレーズ
・誰かを守っている

“ほにゃらら”には

僕のひとつのアイデンティティなるものが入っています。

それが“敵だ”というところにはどういった意味が含まれているのか。。

おそらく想像するに

『重要なのは血ではなく生き方だ』ということではないかと。

ローリング・サンダーの言葉です、はい。


昨日は

午前中、スーパーの特売日ということで

数日前から広告を見て

ばあちゃんと「これとこれと…これ買おうね」という話をしていたものを

開店少し前にお店に行き、列に並び買いました。

主婦やってました。

その後、すぐにお出かけをし

夜10時過ぎに帰宅。

お風呂入って、色々してたらいつの間にか寝てて

日付が変わるその瞬間に、身体がブルブルってなって目覚めた。

あれ何だったんだろう。


昨日一日を通して

やはり、自分の在りたい姿を『保つ』ことの難しさを感じました。

目の前のことに追われ

瞬間の感情に支配され

今までの自分の習慣が浮上してくる。。

今までの自分を押し込めるのは難しいだろうから

在りたい姿を

習慣よりも上に浮上してくるようにしていければいいな。

もしくは

在りたい姿をいっぱい浮かび上がるようなことになればいいな!

今日も一日、心に笑顔を