2013年9月29日日曜日

1年ぶりに被災地へ

今日は日帰りで福島県に行ってきました。



何度来ても津波の凄まじさを感じます。

そして、あの赤い旗が何とも言えません。






ボランティア、支援のかたちも震災初期と比べて変わってきているみたいですね。

情報として知ってはいたけど、実際に足を運ぶと実感します。



話してくださった方たちの明るさや言葉の影に見える哀しみ

被災地に対し

何か僕がすべきなのか

した方がよいのか

それとも…

どういったかたちが良いのかなぁ。



震災からあと6ヶ月弱で3年。




何が嘘で、何が真実か

どの立場で物事をみるか

何を大切に思うかで

現実がいくつもあって

けど


「被災地」の一言で片付けられ
たくさんの糸が複雑に絡み合っているんだけど

それがすごくシンプルに見えるような、、、

そんな感じでした。



情報って何なんだろうなぁ。。




日帰りだったから

余計、表面的なことしか見てないし、聞けてない。

また足を運ぼう。

直接見ないとわからないものもあるし。


福島から東京に帰ってくるときにバスから見た東京の夜景が何とも言えなかったです。


おやすみなさいZzz…

2013年9月25日水曜日

常識って何だろうなぁ、、、

「社会人としての常識を身につけろ」

その言葉を聞いて素直に受け入れることの出来ない僕です。



常識というものは

効率よく日常を回す手段であり

問題を見ないようにする約束事であり

ところ変われば通用しないものであり

思考行動をやめるということでもある。

そして

とても便利なものであり

空気のような存在である。




僕にとっての常識ってそんな気がします。




だから

僕は「そんなこと言ったって社会では生きていくことはできない」

と言われる。




わかってるよ、わかってるけど

その常識が幸せな社会を生んだの?

って

その常識によって

誰かが苦しい想いをしている可能性はないの?

って

聞きたい。





けど、

「最近の若者は…」と言われる。

別にいいんだけど

何か悔しいなぁ。





常識はいずれ腐るものだと思います。

中には守られていくものもあるだろうけど

それはおそらく「常識」というラベルから他の「ラベル」に昇華していくと思います。

2013年9月17日火曜日

僕って何人いるのだろうか…!

僕ってどれだけ僕のことを理解しているのだろう。。

ふと、そう思うことがある。

だって

僕の意識している世界っていうのは僕の意識していない世界、無意識に比べたら

かなり小さいものだから。


日常生活を考えてみてもそうだけど

いちいち「右手を動かす」「いやここの筋肉を動かすの!」「第一関節を曲げて」ってことを考えてたら

何にもできなくなっちゃうもん。

全てを意識したら何も出来なくなるんだろうなぁ。

だから

無意識っていうのはとても便利な機能だと思うんです。

と同時に怖いなぁって。


自分の知らないところで僕の中の誰かが、何かが

しっかりと作業をしてるんだもん。


僕はどれだけ僕のことは理解しているのだろうか…。

そして

全てを理解する必要はあるのだろうか…。


そう考えていくと、人ってある意味みんな人格が複数あるんだろうなぁ。




つぶやきメモみたいなブログでした!

2013年9月13日金曜日

部分的なものの見方。

自身の発信力。
facebookとTwitter、そしてこのブログ
それぞれ違うから面白ーい。



さて

僕のなかにある多次元空間をこの世界で表現するため言語化を試みる。

すると、それは一気に次元を下げ部分的なものになっていく。

「本当はそういうこと言いたいんじゃないんだけどー…」
「あー言葉が見つからないよー…」
「いや、それじゃない…」

自分の至らなさがそれを招いているんだけど、同時に言葉の限界も感じます。
言葉についてはまた今度。


次元。

アインシュタインの言葉に

『我々の直面する重要な問題はその問題を作ったときと同じ考えのレベルで解決することはできない』

っていうものがあるらしいです。

アインシュタインすごいっす。

同じ次元で物事を見てるから

部分的になったり、違いばっかりに目がいったりするんですよね。。

僕らの脳がそうさせているから仕方のないことなんだけど

部分的な世界を全てだと思う人が多いのが少し気になります。

僕らの認識している世界は所詮、部分的なんです。

(紫外線や赤外線まで見れたら何だか忙しそうだなぁ…笑 まぁ、でも慣れるか)


部分的だけど、僕らはその「部分」しか認識出来ない。

《認識出来ない》

ここで分かれる気がします。

《認識出来る世界が全て》と《認識出来ない世界も存在する》に。

どっちも正しいと思うけど

僕はやっぱり後者ですかねー。

厳密にはちょっぴり違うけど、ほぼそれです。


結局、僕らが知覚している世界は

幻覚にすぎないんだろうけど

目の前にしっかりと存在しているから

ちゃんとそれらを意識していきたいですね。


もう現実が全てだ、という次元じゃないと思うんだけどなー。

僕はまだまだアノマリーなんだろうなー。

2013年9月9日月曜日

経験を投入して、それは“在る”

突然ですが

それは“在る”
※そういう題名の本もありまして。面白かったです。

最近、それ系の本をよく目にするので色んな人が本質を見つめてるんだなぁって思います。


ということでこの記事は

ただ“在る”

について。


仮に現実がただ“在る”ものにすぎなかったとしたら…

僕の20数年の意識を投入することで

それは“僕の世界”となる。

僕が作り上げた世界。

つまり

意識の数だけ“私の世界”が存在していることになる。。

その意識が無数に重なり合ってるのがこの現実(感覚)


と思うと面白い(^^)

どこかに小さなズレがあるはず。

そのズレをもっと探してみたーい。


浪漫あるー、わくわくするー、仮想現実の世界。



意識と言えば

自分の意識を自分では把握しきれないところも面白いですよね。

無意識はどこまで意識の影響を受けるのか。

意識はどこまで無意識の影響を受けているのか。

「何も考えない」ことが僕には出来ないから、意識は思った以上にちっぽけなんだろうなぁ。

「何も考えない…何も……考えるな……あれ…考えてる…うわー…」

みたいな笑

2013年9月7日土曜日

意識を投入するということ。

おはようございます(^^)

さっき、人の特徴は「疑問力」である、と何かの本に書かれていたことを思い出しました。

なので、ちょっとした僕の疑問について。



僕が、物事を捉えるとき

複数の視点が同時に存在しています。

ひとつは
目の前の物は、絶対にそこに存在している。条件が変わろうともそこにある。

もうひとつは
目の前の物は、僕が全て創り出した物であって目を閉じるとそれは消滅し目を開けるとそれは存在する。

他にもある気がするけど主にこのふたつです。

矛盾するようだけど、僕の中に確かにあるもの。

最近は、どちらかというと後者の勢力が大きいかな。

ひとつだけ存在しているのではなく、複数が同時に存在していて

場によって、それらの濃度が濃かったり薄かったりしています。



前の記事

あの頃の感覚は蘇ってきたけど、映像が時々それについてこない話で少し触れたけど

僕にはひとつの大きな疑問があります。

それは

「自分の見ている“赤”と他人の見ている“赤”は本当に同じなのだろうか」ということ。

つまり、僕らは本当に同じものを見ているのか、ということ。



同じ言葉でそのものを締め付けているので

相手に確認しても「赤だよ」と返ってくる(はず)。

それが赤なのはわかるんだけど、、、

同じものをその言葉は指しているのだけど、、、

果たして本当に僕の見ているものと、他の人が見ているものが同じなのか僕にはわからない。

絶対に同じ、と言う自信がない。

僕は僕を超えて、他の人になれないから。。

仮に自分の脳がこの現実を作ってるのだとしたら

僕の脳を超えなければその答えに出会えないんだよなぁ。。




だから

僕は

相手を

自分を

信じるしかないんですね。

それしか今の僕にはできないっす。

仮に違うものを見ていたとしても

同じ言葉でそれを表現するという約束事があるから

日常生活に於いて、僕の疑問はただただ無駄っす。

だけど、それがどうしても気になってしまうのが僕です(笑)





雨強ーい、楽しい一日を。

では〜

2013年9月4日水曜日

あの頃の感覚は蘇ってきたけど、映像が時々それについてこない話。

最近、好きな作家さんというか建築家というか音楽家というか人がいます。

坂口恭平さん


坂口さんの世界観や目線、雰囲気が好きなんです。

写真の『幻年時代』を今日、また読みました。

そしたら…

タイトルの状態になりました笑

『あの頃の感覚は蘇ってきたけど、映像が時々それについてこない』



先月30日、坂口さんのトークライブが池袋であって参加してきました。


生の坂口恭平は——何か良く分かんないけどやっぱスゴいわ——ってなりました。

トークライブは僕にとって、「どしゃ降り」でした。

今、感じる「どしゃ降り」ではなく、小学校の帰りに側溝に水が溢れて思わず中に入り喜んでいるときの「どしゃ降り」です。

トークライブで印象に残っているものは
※トークライブは『幻年時代』の刊行記念です。

・知覚の解像度を高めたかった。
・毘沙門天のモバイルハウス
・サナギの中は液体
・自分自身が変化し続けている。それを受け入れない人が多い。
・風が抜ける

かなぁ。

改めて今日『幻年時代』を読んで

普段僕が知覚していない世界が感覚として蘇ってきました。
それは映像を伴ってくる場合もあるし、感覚だけのやつも。


いつのまにか僕は

物事に『線』を引き、自分の舞台を作っていた。

現代を生きていく上で必要なこと(なのかもしれない)。

けど、それはある条件の下の世界観であるということを認識する必要もあると思う。


いささかオカルトチックな話になるけど

量子論や超弦理論(詳しいことは全く知らないけど)の観点からみた場合、僕らが知覚している世界などそこに存在しない。

そして

音や電波は僕らの目では認識出来ない。

けど、僕らはそれを使っている。


「自分の見ている“赤”と他人の見ている“赤”は本当に同じなのだろうか」

トークライブでこんなような話が出た。

「あぁ、そういえばこの“問い”に悩んだ時期が僕にもあった」ということを思い出す。

いつの頃かハッキリと覚えていないけど、僕もこの“問い”に出会っていました。



“赤”という言葉でみんなが認識している“それ”は、確かに“赤”である。

しかし、果たして本当に“それ”同じ“赤”なのか。。。

美術の授業を思い出すので、きっとその時に出会った“問い”なのかもしれません。




そうだった、そうだった。

小さい頃僕は、ひたすら自分の『裾野』を広げていました。

自分が遊び場になってました。

その遊び場は、立体的でどこまでも広がっていました。

ピコピコとゲームもしてたけど、僕はそういう遊び場が好きでした。


それがいつの間にか

常識が絶対であると思い込み、物事に『線』を引き

そのなかで苦しんだり、楽しんだりしていた。

結果、僕の中で遊びが薄くなっていった。。


今の自分の舞台が時々、苦しいから

僕は自然を求めたり、未知に出会ったり、「0」に出会うために足を動かしていたのかもしれない。


ある観点からみると

それは《逃げ》に

それは《自由人》に

それは《自分探し》に

それは《甘え》に

それは《最近の若者は》に

・・・


まとまりのない文やなぁ。。

何が言いたいのかな…

ん?何が言いたいんだ…

・・・

《自分の幅を広げる場》を

裾野を広げる経験を

していきたいです。

あと

自分の感覚と今の映像が重なる層を探していきたいです。


おわり

2013年9月3日火曜日

秋はどこにあるのー。

今日も暑いっすねぇ!

けど、街は徐々に秋モードらしく

たまたま「栗きんとん」という文字が目に入り

「おぉ」ってなって買っちゃいました。

美味しかったー。

食欲の秋、こんにちは。お世話になります。



さて

僕の仲間が今日から自転車で西日本を一周してきます。

一日100キロ前後走行するらしいっす、すごい。

僕はまず、自転車を手に入れるところから始めないと笑



明日は雨らしいので、寄席にでも行こうかなー。

落語詳しくはないんだけど、寄席の空間が好きなんですよね。

なんていうのかな、ぐわっと引き込まれる感じが好きです。

で、落語を好きになった経緯は

僕の好きな有名人が落語が好きだったので「じゃあ僕もとりあえず触れてみよう」っていう感じです。

ちなみに落語家さんは
柳家喬太郎さんと立川志の輔さんが好きです。

・みどりの窓口

・時そば

・午後の保健室

の話を聞いて好きになりました。

まぁ、落語についてはまた今度(TωT)/

結構、面白いですよ。「間」と「枕」と「話し方」



あー、そうそう

今日都内を歩いてたら

どんぐり見つけました!


どこで見つけたのかというと…


ここでーす。

秋いいですね、秋。

もうすぐそこまで来てます。

牡蠣食べたい。



ではでは。

2013年9月2日月曜日

「働く」と「生きる」の境界は何だろうなぁ。という問いに出逢った。

9月になりましたね。

今日は、都内をただただ散歩。

この前読んだ、須藤元気さんの本に「50分歩くと心が落ち着く」みたいなことが書いてあって「その言葉」が、ずーっと頭に残っています。

という訳で、最近は散歩をよくします。

特に心をかき乱すような悩みとかはないのだけれども。


さて

今日は隅田川に行くつもりで電車に乗ったんだけど、トイレに行きたくなり乗り換えの駅で下車。

そんなわけで、今日は赤坂スタートの散歩です。

はい





僕、こういう風景好きなんですよね。

理由はわからないけど

すげーってなります。

この歩道橋の先(この写真だと左後ろ)に

神社らしきものを見つけたので行ってみました。







そこにあったのは、豊川稲荷東京別院。神社かと思ったけど、寺院でした。


この2つが妙に気になってパシリ。
毘沙門天が気になった理由は、すぐ分かるんですよ。先日、参加した坂口恭平さんのトークライブで何度も「毘沙門天」ってワードが出てきたから。けど、左側は何でだろう。。大きいやつの下に潜っていく小さいやつが気になったのかもしれないですね。



というわけで、ここでは無性にトイレに行きたくなったり

毘沙門天について知りたいって思ったりしました。

左の写真、都内では似たような光景が多くありますけど面白くないですか(^^)? 今と続いてきたものと自然たち。

で、その後

ぶらぶら歩いてたら面白いガードレール見つけました。

これです。


発見したとき「おー!」ってなりましたね、はい。
しかも、このガードレールは日本規格協会ビルっていう建物の前にあって…
協会について何にも知らないんだけど、ガードレールと無駄に関連づけてしまった笑

で、また歩きます。

参議院議員宿舎(結構、古い)を抜け、路地に入ったら面白いものをまた見つけました。

これとこれ。

ひとつは…
都内なのに、都内なのに…誰も足を踏み入れてないような道!(左)
もうひとつは…
わざわざ軽専用にした(と思われる)駐車場!(右)
「何で軽専用にしたんだろう。」と考えること数十秒。道が狭いから小回りが効く自動車向けの空間!という意味のわからない結論に達しました。


この辺りから、この記事のタイトルに関わることを考え始めました、ふと。

「働く」と「生きる」の境界は何だろうなぁ。

そもそも境界はあるのだろうか。

というか働いたこと(一般的に言われる意味で)ないから尚更わかんねー。

のエンドレス。


例えばー

「ビジネス」の世界に生きていた人が、脱サラして、ペンションや農業をやる。

うん、これは結構色んなところで耳にする話ですよね。

じゃあ、はどうなんだろうって思った訳です、ここで僕は。

つまり、ペンションや農業をやっていた人が、入サラ?するケースはあるのか、と…。

あるのかなぁ、こういうケース。

頭がぐるぐる笑

うーん、仮にそういったケースがあったとしても、その数は決して多くはないだろうなぁ。

双方に必要な要素とか関連のあるものを全くもって調べてないからわからないけど

後者は「えっ」っていう反応が前者より多そう。

(「働く」と「生きる」を比較することに意味があるのか分からないし、そもそも定義付けをしてないから薄っぺらいわー)

その時の結論は、、、

・自分の中の「働く」のイメージが社会にとっての「働く」と大差ない。
・「生きる」の概念は大きいけど、広くなればなるほどそれは薄くなる。

ふと湧いてきた問いだけど、何度も出てきそうな問いでした。

うーん、どちらかというと
どこかで出逢っていたけどその時は気付かなかった問い

また、出逢いそうなのでとりあえずこの問いは放置しましょう。

(今流行のグラデーションか モゾモゾ)


そんなこんなで歩き続けたら

来ました、皇居。


一般参賀以来。

初めて来たのは小6のとき、じいちゃんとです。

いつか勤労奉仕に参加してみたいっす。


さて、時間が前後しますが皇居に向かう前

ゴミに関する2つの風景に出会いました。

この2つです。
        

ちょっとサイズが合わなかったですねー、このゴミ。(左)
このゴミは掃除する前からここにあったのか、それとも掃除後にここにきたのか。
どっちなんだーい。(右)


疲れてきたので、ゴールを決めました。

靖国神社。


特攻隊員の手記を読んで、日が浅かったので

境内を歩いているとその時湧いてきた感情が僕を包み込んできました。


この神社を巡っては、いろんな立場の人がいろんな発言してるから難しいですよね。

いろんな立場の人がいろんな発言

その言葉たちだけ見ると強いなぁって思う。


さてさて
最後に、僕が最近ハマっている言葉「空間」に関する写真を2枚。



手探りな感じの記事。

では〜(^^)