自身の発信力。
facebookとTwitter、そしてこのブログ
それぞれ違うから面白ーい。
さて
僕のなかにある多次元空間をこの世界で表現するため言語化を試みる。
すると、それは一気に次元を下げ部分的なものになっていく。
「本当はそういうこと言いたいんじゃないんだけどー…」
「あー言葉が見つからないよー…」
「いや、それじゃない…」
自分の至らなさがそれを招いているんだけど、同時に言葉の限界も感じます。
言葉についてはまた今度。
次元。
アインシュタインの言葉に
『我々の直面する重要な問題はその問題を作ったときと同じ考えのレベルで解決することはできない』
っていうものがあるらしいです。
アインシュタインすごいっす。
同じ次元で物事を見てるから
部分的になったり、違いばっかりに目がいったりするんですよね。。
僕らの脳がそうさせているから仕方のないことなんだけど
部分的な世界を全てだと思う人が多いのが少し気になります。
僕らの認識している世界は所詮、部分的なんです。
(紫外線や赤外線まで見れたら何だか忙しそうだなぁ…笑 まぁ、でも慣れるか)
部分的だけど、僕らはその「部分」しか認識出来ない。
《認識出来ない》
ここで分かれる気がします。
《認識出来る世界が全て》と《認識出来ない世界も存在する》に。
どっちも正しいと思うけど
僕はやっぱり後者ですかねー。
厳密にはちょっぴり違うけど、ほぼそれです。
結局、僕らが知覚している世界は
幻覚にすぎないんだろうけど
目の前にしっかりと存在しているから
ちゃんとそれらを意識していきたいですね。
もう現実が全てだ、という次元じゃないと思うんだけどなー。
僕はまだまだアノマリーなんだろうなー。
2013年9月13日金曜日
2013年9月4日水曜日
あの頃の感覚は蘇ってきたけど、映像が時々それについてこない話。
最近、好きな作家さんというか建築家というか音楽家というか人がいます。
坂口恭平さん
坂口さんの世界観や目線、雰囲気が好きなんです。
写真の『幻年時代』を今日、また読みました。
そしたら…
タイトルの状態になりました笑
先月30日、坂口さんのトークライブが池袋であって参加してきました。
坂口恭平さん
坂口さんの世界観や目線、雰囲気が好きなんです。
写真の『幻年時代』を今日、また読みました。
そしたら…
タイトルの状態になりました笑
『あの頃の感覚は蘇ってきたけど、映像が時々それについてこない』
先月30日、坂口さんのトークライブが池袋であって参加してきました。
生の坂口恭平は——何か良く分かんないけどやっぱスゴいわ——ってなりました。
トークライブは僕にとって、「どしゃ降り」でした。
今、感じる「どしゃ降り」ではなく、小学校の帰りに側溝に水が溢れて思わず中に入り喜んでいるときの「どしゃ降り」です。
トークライブで印象に残っているものは
※トークライブは『幻年時代』の刊行記念です。
・知覚の解像度を高めたかった。
・毘沙門天のモバイルハウス
・サナギの中は液体
・自分自身が変化し続けている。それを受け入れない人が多い。
・風が抜ける
かなぁ。
改めて今日『幻年時代』を読んで
普段僕が知覚していない世界が感覚として蘇ってきました。
それは映像を伴ってくる場合もあるし、感覚だけのやつも。
いつのまにか僕は
物事に『線』を引き、自分の舞台を作っていた。
現代を生きていく上で必要なこと(なのかもしれない)。
けど、それはある条件の下の世界観であるということを認識する必要もあると思う。
いささかオカルトチックな話になるけど
量子論や超弦理論(詳しいことは全く知らないけど)の観点からみた場合、僕らが知覚している世界などそこに存在しない。
そして
音や電波は僕らの目では認識出来ない。
けど、僕らはそれを使っている。
「自分の見ている“赤”と他人の見ている“赤”は本当に同じなのだろうか」
トークライブでこんなような話が出た。
「あぁ、そういえばこの“問い”に悩んだ時期が僕にもあった」ということを思い出す。
いつの頃かハッキリと覚えていないけど、僕もこの“問い”に出会っていました。
“赤”という言葉でみんなが認識している“それ”は、確かに“赤”である。
しかし、果たして本当に“それ”は同じ“赤”なのか。。。
美術の授業を思い出すので、きっとその時に出会った“問い”なのかもしれません。
そうだった、そうだった。
小さい頃僕は、ひたすら自分の『裾野』を広げていました。
自分が遊び場になってました。
その遊び場は、立体的でどこまでも広がっていました。
ピコピコとゲームもしてたけど、僕はそういう遊び場が好きでした。
それがいつの間にか
常識が絶対であると思い込み、物事に『線』を引き
そのなかで苦しんだり、楽しんだりしていた。
結果、僕の中で遊びが薄くなっていった。。
今の自分の舞台が時々、苦しいから
僕は自然を求めたり、未知に出会ったり、「0」に出会うために足を動かしていたのかもしれない。
ある観点からみると
それは《逃げ》に
それは《自由人》に
それは《自分探し》に
それは《甘え》に
それは《最近の若者は》に
・・・
まとまりのない文やなぁ。。
何が言いたいのかな…
ん?何が言いたいんだ…
・・・
《自分の幅を広げる場》を
裾野を広げる経験を
していきたいです。
あと
自分の感覚と今の映像が重なる層を探していきたいです。
おわり
2013年9月2日月曜日
「働く」と「生きる」の境界は何だろうなぁ。という問いに出逢った。
9月になりましたね。
今日は、都内をただただ散歩。
この前読んだ、須藤元気さんの本に「50分歩くと心が落ち着く」みたいなことが書いてあって「その言葉」が、ずーっと頭に残っています。
という訳で、最近は散歩をよくします。
特に心をかき乱すような悩みとかはないのだけれども。
さて
今日は隅田川に行くつもりで電車に乗ったんだけど、トイレに行きたくなり乗り換えの駅で下車。
そんなわけで、今日は赤坂スタートの散歩です。
はい
僕、こういう風景好きなんですよね。
理由はわからないけど
すげーってなります。
この歩道橋の先(この写真だと左後ろ)に
神社らしきものを見つけたので行ってみました。
この2つが妙に気になってパシリ。
毘沙門天が気になった理由は、すぐ分かるんですよ。先日、参加した坂口恭平さんのトークライブで何度も「毘沙門天」ってワードが出てきたから。けど、左側は何でだろう。。大きいやつの下に潜っていく小さいやつが気になったのかもしれないですね。
というわけで、ここでは無性にトイレに行きたくなったり
毘沙門天について知りたいって思ったりしました。
左の写真、都内では似たような光景が多くありますけど面白くないですか(^^)? 今と続いてきたものと自然たち。
この辺りから、この記事のタイトルに関わることを考え始めました、ふと。
じゃあ、逆はどうなんだろうって思った訳です、ここで僕は。
つまり、ペンションや農業をやっていた人が、入サラ?するケースはあるのか、と…。
あるのかなぁ、こういうケース。
頭がぐるぐる笑
うーん、仮にそういったケースがあったとしても、その数は決して多くはないだろうなぁ。
双方に必要な要素とか関連のあるものを全くもって調べてないからわからないけど
後者は「えっ」っていう反応が前者より多そう。
(「働く」と「生きる」を比較することに意味があるのか分からないし、そもそも定義付けをしてないから薄っぺらいわー)
ふと湧いてきた問いだけど、何度も出てきそうな問いでした。
うーん、どちらかというと
どこかで出逢っていたけどその時は気付かなかった問い?
また、出逢いそうなのでとりあえずこの問いは放置しましょう。
(今流行のグラデーションか モゾモゾ)
そんなこんなで歩き続けたら
来ました、皇居。
初めて来たのは小6のとき、じいちゃんとです。
いつか勤労奉仕に参加してみたいっす。
さて、時間が前後しますが皇居に向かう前
ゴミに関する2つの風景に出会いました。
この2つです。


ちょっとサイズが合わなかったですねー、このゴミ。(左)
このゴミは掃除する前からここにあったのか、それとも掃除後にここにきたのか。
どっちなんだーい。(右)
疲れてきたので、ゴールを決めました。
靖国神社。
特攻隊員の手記を読んで、日が浅かったので
境内を歩いているとその時湧いてきた感情が僕を包み込んできました。
この神社を巡っては、いろんな立場の人がいろんな発言してるから難しいですよね。
いろんな立場の人がいろんな発言
その言葉たちだけ見ると強いなぁって思う。
さてさて
最後に、僕が最近ハマっている言葉「空間」に関する写真を2枚。
今日は、都内をただただ散歩。
この前読んだ、須藤元気さんの本に「50分歩くと心が落ち着く」みたいなことが書いてあって「その言葉」が、ずーっと頭に残っています。
という訳で、最近は散歩をよくします。
特に心をかき乱すような悩みとかはないのだけれども。
さて
今日は隅田川に行くつもりで電車に乗ったんだけど、トイレに行きたくなり乗り換えの駅で下車。
そんなわけで、今日は赤坂スタートの散歩です。
はい
僕、こういう風景好きなんですよね。
理由はわからないけど
すげーってなります。
この歩道橋の先(この写真だと左後ろ)に
神社らしきものを見つけたので行ってみました。
そこにあったのは、豊川稲荷東京別院。神社かと思ったけど、寺院でした。
この2つが妙に気になってパシリ。
毘沙門天が気になった理由は、すぐ分かるんですよ。先日、参加した坂口恭平さんのトークライブで何度も「毘沙門天」ってワードが出てきたから。けど、左側は何でだろう。。大きいやつの下に潜っていく小さいやつが気になったのかもしれないですね。
というわけで、ここでは無性にトイレに行きたくなったり
毘沙門天について知りたいって思ったりしました。
左の写真、都内では似たような光景が多くありますけど面白くないですか(^^)? 今と続いてきたものと自然たち。
で、その後
ぶらぶら歩いてたら面白いガードレール見つけました。
これです。
発見したとき「おー!」ってなりましたね、はい。
しかも、このガードレールは日本規格協会ビルっていう建物の前にあって…
協会について何にも知らないんだけど、ガードレールと無駄に関連づけてしまった笑
で、また歩きます。
参議院議員宿舎(結構、古い)を抜け、路地に入ったら面白いものをまた見つけました。
これとこれ。
ひとつは…
都内なのに、都内なのに…誰も足を踏み入れてないような道!(左)
もうひとつは…
わざわざ軽専用にした(と思われる)駐車場!(右)
「何で軽専用にしたんだろう。」と考えること数十秒。道が狭いから小回りが効く自動車向けの空間!という意味のわからない結論に達しました。
この辺りから、この記事のタイトルに関わることを考え始めました、ふと。
「働く」と「生きる」の境界は何だろうなぁ。
そもそも境界はあるのだろうか。
というか働いたこと(一般的に言われる意味で)ないから尚更わかんねー。
のエンドレス。
例えばー
例えばー
「ビジネス」の世界に生きていた人が、脱サラして、ペンションや農業をやる。
うん、これは結構色んなところで耳にする話ですよね。
つまり、ペンションや農業をやっていた人が、入サラ?するケースはあるのか、と…。
あるのかなぁ、こういうケース。
頭がぐるぐる笑
うーん、仮にそういったケースがあったとしても、その数は決して多くはないだろうなぁ。
双方に必要な要素とか関連のあるものを全くもって調べてないからわからないけど
後者は「えっ」っていう反応が前者より多そう。
(「働く」と「生きる」を比較することに意味があるのか分からないし、そもそも定義付けをしてないから薄っぺらいわー)
その時の結論は、、、
・自分の中の「働く」のイメージが社会にとっての「働く」と大差ない。
・「生きる」の概念は大きいけど、広くなればなるほどそれは薄くなる。ふと湧いてきた問いだけど、何度も出てきそうな問いでした。
うーん、どちらかというと
どこかで出逢っていたけどその時は気付かなかった問い?
また、出逢いそうなのでとりあえずこの問いは放置しましょう。
(今流行のグラデーションか モゾモゾ)
そんなこんなで歩き続けたら
来ました、皇居。
一般参賀以来。
初めて来たのは小6のとき、じいちゃんとです。
いつか勤労奉仕に参加してみたいっす。
さて、時間が前後しますが皇居に向かう前
ゴミに関する2つの風景に出会いました。
この2つです。

ちょっとサイズが合わなかったですねー、このゴミ。(左)
このゴミは掃除する前からここにあったのか、それとも掃除後にここにきたのか。
どっちなんだーい。(右)
疲れてきたので、ゴールを決めました。
靖国神社。
特攻隊員の手記を読んで、日が浅かったので
境内を歩いているとその時湧いてきた感情が僕を包み込んできました。
この神社を巡っては、いろんな立場の人がいろんな発言してるから難しいですよね。
いろんな立場の人がいろんな発言
その言葉たちだけ見ると強いなぁって思う。
さてさて
最後に、僕が最近ハマっている言葉「空間」に関する写真を2枚。
手探りな感じの記事。
では〜(^^)
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