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2014年7月17日木曜日

一生来ることのない将来について

こうぷらぷら生きていると

「そんなんで大丈夫?」とか「将来どうするの」とか

「今、何をしているの」とか色んなこと聞かれるんですけど

正直なところ、、

「大丈夫じゃないっすか〜、へへっ」って感じなんですよね。

別に僕は夢に生きているわけでもないし

未来を生きるわけでもないし

何をしているのかっていうものより大切なものがあると思っているし。。

まぁ、ただこのような考え方が一般的には受け入れられないのも事実なので

如何に、相手にわかりやすく納得してもらえるのか

ということは意識していかないといけないのかな、って思います。


僕らはただただ

今を感じていたい。

この世界の美しさを感じていたい。

美しさを人と共有したい。

僕らの見つめる世界

シンプルでとても美しい重層構造を共有したい。

そして

大地とともに生きる人を増やしたい。

その人がその人として

自然体を生きる、ありのままを生きる

そういった世界になれば僕らはそれでいい。



過去は智慧の宝庫

未来は矮小化された自己の最大限のイメージ

先人は僕らに智慧を語り、

後に生を受けたものは僕らに未来を見せてくれる


世界はそもそも矛盾を孕んでいて

完璧じゃないことを悟ったとき、世界は完璧だということを感じる。
わからないことをわかろうとしなくなったとき、わかるようになる。

だから

もっとシンプルに世界を覗こう

奏でよう僕らの未来を

地球に還ろう



2014年5月26日月曜日

『一見』という言葉から、生きることについて少し考えてみた。

今朝、読んでいた本に

『一見すると…』という記述がありました。

その言葉が、今日はなぜか心に残り

そこから

考えをぐるぐると巡らせました。

その過程をメモしたので

それを書きます。

===============

『一見』

この言葉がどこでどのようにして生まれたのか僕は知らない。
ただ…『一見』という概念を、言葉にした人の感性に深く深く尊敬の念を抱く。

そう、物事は、世界は「一見すると…○○のようだ。」ということに満ちている。
この『一見』の先にある“何か”について、思考をめぐらせる人、めぐらせている人
そういった人が、きっとこの世の中に新たな価値、世界の見方を提示していくのだろう。

人間のエゴ、お金という指標、正義という悪魔により進歩してきた現代。
その現代社会において生まれた問題を解決、解消する手だてはどこにあるのだろうか。
色々なやり方があると思うが、僕は“根源”というものが
ひとつのキーワードになってくると思う。

その“根源”という問いを自らに向ける。

“根源”とは『一見』の先にあるもの。
『一見』という皮の下に漂っているもの。

“根源”は“そもそも”という言葉で言い換えることもできる。
そして“根源”へと続く道のりは“進化”とも言えるだろう。

ここで『進歩』と“進化”の違いについて少し共有します。


以前、ブログにも載せた画像です。

『進歩』とは人間の意図により歩む道
それは“自然の法則”に沿わない道でもある。
しかし、便利で効率的な道でもある。


今、これからの時代に求められる道程の切り口は
おそらく“根源”、“そもそも”、“退歩”
そして“自然法則”であると思う。

だからこそ、今、僕は自身の“在り方”というものに
目の前の人の“在り方”というものに
先達の“在り方”に興味がある。

“在り方”は自らの意志のようなもの。
“生き方”は他者からみたその人の“在り方”のかたち。
と僕は定義と言ったら強いけど、そう理解している。

○●今、僕が興味あるもの○●
・初期仏教
・先住民の世界観、哲学
・陰陽五行
・禅、武士道
・アミニズム
・旧暦
・三島由紀夫
・自然
・発酵
・言葉
・パーマカルチャー

その上で
自分が世界をどう見るのか、見ているのかを知り
どういった視点で世界を見ていくのかを選択すればいい。

「押しつけ」は対立を生む。
例え、その「押しつけ」が真実であろうと。

自らの頭で考えていけば、自ずと“それ”はやってくる。

“矛盾”を抱え、“孤独”を抱き、その上で人と関わり
自らの世界を“在り方”を通して形作っていけば良いと思う。

もちろん、夢から“生きる”ことも良いと思う。
けど、僕は“在り方”からの生き方を選ぶ。

○●今、僕が興味のある言葉○●
・矛盾
・孤独
・「自ら」と「自ずから」
・諦め
・希望
・情熱
・退歩
・進化
・根源

===============

こんな感じです。
メモを若干読みやすいように変えていますが
語感はそんなに変わっていないと思います。

ここに書かれたメモを僕自身
もう少し深く見つめてみたいと思います。

2014年5月25日日曜日

不思議な感覚、静止画と音、そして風

今朝は瞑想というより坐禅をしました。

半眼というものが坐禅のひとつの特徴だと思います。

坐禅をしているなかで

今朝、世界が一枚の写真のようになり

小鳥の鳴き声が僕の内面から湧いて出てくるような感覚に包まれました。

とても不思議な感覚でした。

世界そのものが静止画となり

音、それ自体が自身の内面から湧いてくる。

けれども

風、それは僕の外を吹いている。

とても不思議な感覚。

なんだろう。


本当の僕

今、世界で起きている問題の根源にある問題

僕の在り方に名前を


というもの、それ自身が教えてくれるもの

その答えを僕は求めているのだろうか

だとしたら

やはり

僕は、言葉という存在を身近に感じ

それを用いて

僕を、僕自身の気配を感じたい。

あらわしたい。


まだ、少し頭が回らない。

文章にまとまりがないような気がするけど

今、この瞬間の妙な感覚を

この状態を記録。


ぐるりと世界はまわる

僕もまわる


では、また

2014年5月24日土曜日

パズルのピース

僕が世界のピースなのか
世界が僕のピースなのか

僕というピースが世界を浮かび上がらせるのか
世界というピースが僕を浮かび上がらせるのか

僕が凸で、世界が凹なのか
世界が凸で、僕が凹なのか

世界が凸という視点
僕にはなかった

その一言が
深く深く
僕をゆさぶる


凸であり
凹であり
そのどちらでもない
そして
そのどちらでもある

それでいい
それがいい

2014年5月21日水曜日

自分らしさって

自分らしさって

きっと

自分じゃ絶対にわからないものだと思う。



自分らしさは自分の中にはない

たぶんこれが

僕の肌感覚に近い表現。



だから

自分らしく生きようと思っているうちは

自分らしくないと思う。


人に

「●●らしいねぇ」とか

言われる経験を積んで

感覚的に

あー、これ自分らしいかも

って気付くことはあると思う。

でもそれは

自分の中に

他人の思考が入っているからこその気付き。

だから

自分らしさは自分の中にはないよ。

結果として自分らしさは自分の中にあるけど

それはあくまで結果であって

はじまりではない。



どう在りたいか

というものは

自分らしさというものに

最も近い

自分自身。

だけど

それは

近いだけで

決して自分らしさではない。

それは

らしさではなく

その人自身

その人が抱えているもの

だから


その人らしさは

その人の思考から離れたところに存在する。


ただ

その人が限りなく広い客観視が出来る人であれば

話は少しずつズレていくけど

そういう人は多くない(はず)。


だから

自分らしく生きる必要はない。

後々

あー、これ自分らしいな

って色んなものを通して気付くくらいが

傷つかなくてちょうど良いと思う。


どう在りたいか

それが自分ができる精一杯の「自分」らしさ

在り方自分らしさ

出発点も到達点も違うけど

混ざり合う要素は大きいと思う。


とにかく

自分らしく生きよう

なんて

考えに

支配されなくていいよ。

人によっては苦しむだけだから。

それで苦しまない人が

苦しまない時に

その選択をすればいいだけ。


何だか難しい

らしさ

他人に任せて

自分にとって違和感の少ない生き方をすればいいと思う。

僕は自然体に。

(こんなこと言っているけど、僕は別にこの意見に捉われてないし捉われたくもない。。といっている自分にも捉われたくない。。。これがエンドレスに続く感じ。。。。という自分を肯定する自分にも捉われたくない。。。。。うひょ…笑)

考えない、ということ

人は一日に15万回ほど選択をしている

と、どこかで読んだ記憶があります。

数字がそれだったか定かではないです。

毎瞬毎瞬

アレをやる、コレをやる

アレをしない、コレをしない

ということを意識、無意識に関係なくやっているとすれば

自然と15万回くらいいくのでしょうね。


さて、

人は『考える』ことから

離れることが出来るのでしょうか。


僕は

瞑想をしていますが

瞑想をしていると

いかに自分が考えているか

そのことに驚きます。

考えない

という瞬間が今はたぶん

ほんの一瞬あるかないか

という感じです。

そのほんの一瞬を

ちょっとずつちょっとずつ

増やしていきたいです。


人が

何をしてきたか

ということも大事ですけど

何をしてこなかったか

何をしないと決めたか

そのことを

知るのも大切なことだと思います。

する、してきたというポジティプな面だけではなく

しない、やめたという一見ネガティブに見える面にも

その人の香りがあると思います。


今日は雨です。

そして

今日から二十四節気でいう

小満です。

陽気の兆しが徐々に

兆しを超え

草木が満ち始めるころ。

素敵な小満の15日間になりますように


今日も楽しく。

2014年5月19日月曜日

果たして僕は真に【矛盾】を愛することが出来るか

【矛盾】

最近

矛盾を愛することができるか

という問いが

僕の思考の一部に存在し続けている。

結論から

先に言うと

僕は

矛盾を愛することが出来る人が孤独を抱え

ありのままを生きることができると考える。


もちろん

それ以外にも

そこに到達することは可能だし

そもそもそこを目指す必要はない。

でも僕は

言葉について常日頃考えているから

言葉の観点からこの問いについて向き合いたい。


なぜ

現代社会は矛盾を嫌悪するのか。

私見だが

矛盾というものは

合理的でないし効率的ではないから嫌悪される。

そして

矛盾を解消、超えるためには

思考しなければならない

つまり

自らに依る必要がある。

これは

現代の教育方針とは袂を分かつ。

答えのない

いわば

自ら答えを求め

自ずから答えを得る

そのことを現代の教育は求めない。

思考しない人間は

支配者にとって都合が良い。

資本主義社会において

都合の良いニンゲンが生まれることは

ある世界の人にとっては嬉しい。


現代

矛盾というものは

反対の意味で神話化され

否定されてきた。

しかし

僕は思う。

現代が抱える問題を止揚させるためには

矛盾を抱く必要があると。

そしてそのためには

【言葉】に含蓄される【動き】というものを

意識する必要がある。


日本語には言霊というものがある。

これは

日本人が言葉というものに

“生”を感じていなければ

生まれてこない発想である。

違った表現をすると

何ものかの“息づかい”を感じているからこそ

生まれてくる発想である。


言葉というものは

境界線を創り出す作業でもある。

それは

結果として違いを強調する。

今は違いを強調するあまり

本来の境界線から意味が離れ

それが囲いの域まで達してしまった。

言葉とは、境界線とは何か

今一度考える必要がある。


そもそも言葉とは

動的な何かに対し

ゆるやかな生け垣を敷くものではないか。

動的なものがいつしか

静的なものに変化していった。

そのどちらも

言葉には必要だ。

しかし

今は明らかに

一方に偏っている。

偏りが常なるものになるのは

恐ろしい。

ゆらぎがあっての物事ではないのか。



人は戸惑う。

正反対のことが

世の中では主張される。

どれもそれらしい根拠とともに。


人は

敵を見出すことを通じ

自らの群れを認識することがある。

自分とは違うもの。

自分と同じもの。

これは

いわゆる

二元論だ。


二元論は世界を飛躍的に進歩させた。

しかし

それは進歩であり

進化ではない。

進歩は矛盾を肯定しない。

なぜなら

目に見えるもの、物質的なものが

進歩にとって第一義だからである。


では

進化はどうか。

進化は自然の摂理というものの中で

発展していく

いわゆる

大いなるもの

イメージをしている。


デカルトに端を発する二元論的思考は

確かに

社会を身体面で大きく進歩させた。

しかし

一方を良しとする思考は

根本からの対立を生んだ。

戦争が【正義】のもと

行なわれるのが良い例だ。



今こそ

僕は言いたい。

『矛盾を愛そう』と。

『言葉には“動き”がある』と。

『二元論は限界だ』と。


そして

僕は思う。

このような発言をしていてアレだが

僕自身

自らの思考に捕われては意味がない、と。

信じて疑う。

これこそが

ヘーゲルの弁証法の真意であり

田坂広志さんがよく引用する螺旋的発展の法則であり

仏教のいう三性の理である、と。

自らに依り、自らを自ずから疑い、そして信ずる。


自分のなかにある【矛盾】を否定することは避けたい。

相反する感情があって当然ではないのか。

僕は人だ。

そんな自分と向き合ってこそ

人は孤独を抱え

人と繋がれるのではないだろうか。


よくわかんないことになった。

とにかく

ひとつだけ。

矛盾あっての自然体だ。



自己正当化(笑)

だから僕は

アナログもデジタルも

不便も便利も

出る杭も出ない杭も

思考も行動も

やれ、やめろも

全て

OK牧場と

言えるようになりたい←

そもそも孤独を愛する必要の可否についてもあるけど

それは置いといて…笑


我唯足知

ってまだまだ先やなぁ。。笑

初夏の鎌倉便り

こんにちは〜

今日は

いつもより早く目覚めたので

鎌倉に行きました。

北鎌倉で下車

スターバックスコーヒー鎌倉御成町店を

目指します。

スタバに着くと

いつも通り

抹茶ティーラテ・トールサイズを注文

そして

いつもと同じ席に座り

本を読み



そして

【物語】

【矛盾】

について考える。

店内が混んできたので

イヤホンをし528Hzの音楽を聴きながら

ペンを走らせる。

少し

ぼーっとして

店を出る。

今日は気分的に

海な感じだったので

由比ケ浜をとりあえず

目指す。

途中、このような景色に出会う。

でも

適当にぶらぶらしていたので

ここがどこだかわからない笑


このような光景をよく見かけるのだけど
この石にはどのような意味があるのだろう。


やっぱ小径はうきうきわくわくしますね!


これは人工的に植えられたものなのか
それとも自然に発生したものなのか
そのどちらでもあるのか
どちらでもないのか
疑問に思いパシリ


そして


由比ケ浜に到着。

ここでは

しばらくの間

ぼーっとしていました。

外房の海を見て育った僕としては

ここから見える海は

穏やかです。

海を見たからには

山へ行こう

ということで

まずは鎌倉駅へ戻ることに。

そしたら

駅周辺は人で溢れていて

一気に現実感を帯びてきたので

人ごみを避けるように

北鎌倉(だと思われる)の方へ

てくてく歩く。

亀ケ谷坂というところを抜けると

建長寺という看板が目に入る。

そういえば一度も訪れたことがない…。

というわけで

行ってみた。


緑と空がいい感じです。


蘭渓道隆(だったかな)が作ったお庭


名前忘れたけど、なんとか院へと続く道


半僧坊へと続く道の途中に出会った子


思わずパシリ


半僧坊、建長寺裏山から
富士山がこの先に現れる日もあるらしい


正統院(だったかな…)


そして

円覚寺へと向かう。

その途中

偶然見つけたお店

喫茶ミンカ

素敵です。

ひっそりと佇んでいました。



そして

お昼過ぎに東京へと戻ったとさ。

2014年5月18日日曜日

気取ってエッセイ

【光と風の音。】

僕は

ゆらめきながら

あなたに近付いた。

僕がゆらめくと

小さな風が起こる。

その風が

あなたを包む

小さな春の風に

なると僕は嬉しい。

お日様に負ける僕が

現れるのは

明け方と夕方

その頃、吹く風は

僕のあるがままの姿。

あなたは光を編み

僕は風を紡ぐ

あの香りを乗せながら

2014年5月17日土曜日

粋と野暮

江戸の言葉に

"粋"と"野暮"

というものがあります。

これは

言葉では説明できるものではなく

書物や人から

感じ取るようなものだと思います。

先日、歩いていたら

ある看板を見かけました。

これは

"粋"と銘打っているので

僕は"野暮"だと思います。

思うに

"粋"とは

説明するようなものでもないし

できるようなものでもない。

ということは

つまり

この文章自体が"野暮"

うひょひょ。

最後に

目に留まった看板を。

これです。

2014年5月13日火曜日

空っぽな僕に吹き込む風

生きる力

信念



色んな表現の仕方があるけど

僕の場合

スゴくシンプルで。

ただひとつ

『取り戻したい』

という衝動のような感情があります。

ぽっかりと空いてしまった何かを

埋め合わせたいんだと思う。

それは

おそらく

小さい頃からずーっと今まで抱えていた

孤独感

から来ていて

多くの人が描く

ポジティブな世界からの感情ではないんです。

ある意味

僕を真に理解してくれる人なんて居ないんだ

という諦めみたいなもので。

でも

それは

自分の思い込みに過ぎないこともわかっているから

ややこしい人間。。

.

ずーっと独りぼっちで

ずーっと孤独とともに生きてきたくせに

僕は

寂しがり屋で目立ちたがり屋なんだけど

かなりの人見知りだから

いざ

他者の感情が僕に向けられると何もできなくなってしまう。

あたふたしてしまう。

だから

僕は今まで

人とは違う『選択』というものを通して

自分を確立させていた部分があって

そのことを

理会してくださる方に出逢えたのは

僕にとって

最高の救いなのかもしれない。

僕の見かけの行動の根源を見抜いている人

そんな人の在り方に憧れる。

.

僕は

空っぽの時間を埋め合わせたい

孤独を抱えながら人と深く繋がりたい

んだよね、結局。

そして

それをこの現実世界と繋げるために

自然体、ありのまま、等身大、ナチュラル

という在り方を僕は追求したい。

矛盾しているようにみえるけど

それでいいんだ。

僕のなかでそれは矛盾してないんだから。

でも

厳密にいえば

埋め合わせ

という表現も少し違う。

空っぽな何かに

今を注入させていって

反転させたい

この表現の方がしっくり来るなぁ。

たぶん

こっちの方が伝わらないけど。

.

自然体

そういう状態で常にいられるよう

僕にとって非日常というものを日常に散りばめ

それが常なるものになる日の到来を信じるしかない。


例え

そんな日が来なくとも信じ抜く。

夢や目標は

僕にとって

表現手段に過ぎないんですよね。

もちろん

夢や目標は

僕にもあるけど

それに支配されたくない

だけなのかも。

.........................

まとまりがない

ロジカルではない

のは

きっと

この文は

僕の深淵を覗いているからだと思う。

あと自分を見つめるために書いているからかも。


気持ちよく崩れ去った。

ボクはボクを支配できない

良い意味で

先日

ボクの世界は

終わりを告げた

即ち

始まりを告げた

.

何をせずとも

分裂する自己を

統合へと向けて

ただひたすら

歩んでいく

孤独な道程を

ただひたすら

それを抱えて

.

先達が信ずる

それを

ボクも信じようと思う

ボクはボクの根源を追求する

それ即ち

大いなる世界を追求することである

それ即ち

分断していく、されていく世界に顔を入れることでもある


それは

ただ在るのだから

実体を掴めずとも

在るのだから

そこに矛盾はない。

2014年5月8日木曜日

飲食店での写真撮影。

僕も

美味しそうな食べ物の写真を撮っちゃう人です。

おそらく

SNSの影響でしょう。

最近は

撮ることを忘れ

食べたい衝動に駆られるため

カメラをパシャパシャする機会は減ってきましたが。
.
今日

ちょっと気になる光景に出会いました。

店員さんがお皿をテーブルに置くと同時に

パシャパシャと。

店員さんがテーブルを離れてから

撮ってもいいんじゃないのかなぁ、って思っちゃいました。

撮ること

食べること

どちらを大切にしているか

もっと踏み込めば

どちらの優先順位がその人の中で高いか

という価値観に触れる機会をいただきました。
.

そもそも

を考えてみると

そのグループの行動は

少し"進歩"的なのかな。

僕は



"進歩"ではなく

そもそも

つまり"進化"

に関心があります。

"進歩"と"進化"の違い

って

何だと思いますか?

今日

ふと気になった光景から

"そもそも"と向き合うことの大切さに

気づかされました。

"進歩"と"進化"の違い



これです。

↓↓↓


詳しくは、また。

憧れ

憧れの人って

いう方が僕にもいます。

その方にどう近づこうとか

そんなことを考えていた時期もありました。

物理的にも心理的にも。

でも

先日

療養中に

ふと

『だったら僕が憧れの人が憧れる人になればいいんだ』

っていう

気づきみたいなのがありました。

だからどうこう

っていうわけじゃないのですが

その時

なるほどなぁ

世の中、見方次第だぁ

って感じました。

憧れの人は僕にとって永遠の憧れで叶わぬ恋でもあります。

だからこそ

その憧れの人が憧れを感じるような人にならなければ、なりたいな

って思いました。

2014年4月30日水曜日

絶望。

「絶望からしか希望は生まれない。」

という

言葉がずーっとずーっと

僕の頭の中を支配しています。


勉強すればするほど

己の未熟さを見せつけられ

行動すればするほど

己の失敗を突きつけられ

知識と実際の行動の差を

見せつけられ

もう日々

自分に絶望。


人は

「客観的になれ」というけれど

僕が僕に対し

「客観的になること」なんて絶対に出来ない。

己の思考から

逃れることなんて出来ない。

なりたいけど、そんなこと出来ない。



僕は

ひとりぼっち。

先日、お会いした執行先生が

「孤立」と「孤独」は違う。

と仰っていました。


自らを失うものになっていくのが、孤立
自らを創ろうとする行動が孤独

そして

孤立は保証を
孤独は情熱と受難を

生む、と。


あー

まだ、孤独を受け入れることが出来ていないんだろうなぁ。。



満たされることのない魂を抱え

自らの運命を信じ、そして愛したい。

美しいものでも

醜いものでもなく

ただ

そこに在る

真の自己と出会いたい。



絶望からしか希望は生まれない。

希望は未来にはない。



宮沢賢治

あなたなら

どう世界を見る。


全ては無であり有である。

世界はいずれ反転する。

しかし

全ては

それにすぎず

それは

遊びである。


今日も一日、生きる。

2014年4月19日土曜日

なぜ僕は本を読むのだろう

本を読む。


なぜ、僕は読書をするのだろう。

正直言って

この問いに正解があるのか

わからない。

わからないけど

僕はこれからも本を読み続けます

きっと。


著者との対話

自分との対話

そして

本を媒体とした

他者との対話


読めば読むほど味が出る本

毎回同じところで感動する本

気付きが毎度違う本

思わず人に渡したくなっちゃう本


僕は本の何に惹かれるのだろう。

ここで
















.

にある読書論の一部を共有します。

第一義 
読書を通じて文化の先達と自己との魂の対話を行なう

第二義
狭小なる自己を超越するために、先人たちが如何にして生き、如何にして死したかを知る

第三義
自己の存在の根源としての先人たちの英知を学び、それを自己に有用に用いる

第四義
自己に内在する活力と使命を自覚するために読む
自己の人生の限りなき応援者としての先人を選び、その先人と自己とが友人となることが重要

第五義
先人たちの残した良書を読むことにより、その知恵や労苦、喜びや悲しみを自己を媒介として子孫に伝達する


いやー

執行草舟さん

シビれます。

この章を読んでから

僕は

本の読み方が変わりました。

今までは

ただ

書かれている内容をただただ吸収、消化していました。

なので

どちらかというと

「読むことをこなす」ような読み方です。

しかし

今は

対話を心がけ

著者の想いを求めています。

そして

そこから

自分の頭で、肚で考えることを意識しています。

「聴く。考える。実践する。繰り返す。見つめる。」ような読み方です。



誰かの言葉の受け売りをしていた過去の僕

誰かの言葉を話すことは、楽だし、納得するし、もっともらしいし。

確かに

そのようなことが求められる《瞬間》があると思います。

けど

やはり

それだけでは

《自分》というものがどこかにいってしまう気がして僕は寂しいです。

というか勿体ないような気がします。



坂口恭平さんが先日このようなことをTwitterで呟いていました。

ー分裂していない人間は操作しやすいのである。社会制度としてお金がなくなると生きていけなくなると仕込めばそれで奴隷完了だからだ。しかし本来、分裂していない人間など一人もいないのである。分裂しているからこそ、自らを統合しようと「思考」を促すのだから。分裂のない統合はただの思考停止であるー



自分なりに

考え、そして行動し

その過程を通じて

誰かの言葉や経験、体験、思考を

自分の経験、体験、思考などを

自分の言葉にしていく、言葉を紡ぎ出していく。

そういったことが

僕は大切だと思います。



なぜ僕は本を読むのか

それは

自己という存在と向き合い、自身の命を自分で燃やしていくため

じゃないかな

今はそんな気がします。

2014年4月18日金曜日

ルドルフ・シュタイナー展 〜天使の国〜

昨日、ワタリウム美術館で

開催されている

シュタイナー展に行ってきました。

(初ワタリウム美術館です。)


シュタイナーは

今年に入り、その存在を知り

知れば知るほど

僕を惹き付ける人です。


シュタイナー展に合わせ

坂口恭平さんの特別展示も行われていました。

坂口恭平さんは

僕の私淑する方の一人です。


そして

シュタイナーを知るための6人という

ものがありました。

そこに

なんと・・・

ミヒャエル・エンデ

の名前が…!

いやー

この美術展

僕得ですね。


シュタイナーの足跡を

展示物や映像、文字を通して

追っていましたが

やはり彼はスゴいです。

僕は

また

彼のことを知りたくなりました!


シュタイナーの言葉

思考するときの私たちは、光の中を生きています。

宇宙を認識したければ、汝自身を見るがよい。
人間を認識したければ、宇宙を見るがよい。

私たちの建築は、ケーキ型のようなものです。
それ自体のためでなく、ケーキのためにあるのです。


シュタイナーさんのことをもっと知りたい。


最後に…
ワタリウム美術館の入り口に
バイオダイナミック農法の野菜が売られていました!
まさか、君にこんなところで出逢うとは…(^^) 感動。

2014年4月14日月曜日

「僕が感動した瞬間を10個写真に収めてみた」〜鎌倉編〜

今朝、不思議と早く目が覚めました。

朝5時頃

急に【鎌倉】という言葉が浮かび、僕は出かけた。

朝8時頃

【鎌倉駅】に到着。

電車では

この本を読みました。


『ある日、双子の姉弟のもとに未来の自分からメールが届く。さぁ、フライト・ゲームの始まり。』

一言でいうとこんな感じです。。笑

とっても面白い本です。

こちらの本は僕の大好きな本屋さんで購入出来ます。


【鎌倉駅】に着いたは良いものの何にも考えてない、無目的の旅。

それはちょっと寂しいから…作戦会議。

近くの某コーヒー店へ。









.

「今日は僕が感動した瞬間を10個写真に収めてみよう!」

となりました(^^)

実はこれも来るまでに読んだ本の影響なんです。。笑←


ではでは写真を公開。

その1
 大仏さんをナナメから

その2
 強いぜ、自然さん

その3
 顔晴れ!

その4
 おじさんの世界を覗きたい

その5
 うわっ、急!!(写真じゃ伝わらない…笑)

その6
 ベンチにプレート!

その7
 「遊ぶことは生きること」

その8
 ここの土は黒いです。

その9
 空で遊ぶ人工物

その10
右の線が急に狭まる!

以上です。

もうひとつ読んだ本があります。

三度目の


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いやー、最高です。この本!


2014年4月12日土曜日

ここ数日、僕に送られてくるサイン。

昨日

北山耕平さんの「ネイティブ・マインド」という本を読みました。

おそらく5度目です。

そして、今朝

天外さん、衛藤さんの「イーグルに訊け」という本を

約1年ぶりに読みました。


なんだか最近

僕の中で

『先住民』がブームなんです。


そして

「イーグルに訊け」の第4章の副題

『私たちはどこに向かっているのか』

という文が妙に心に残りました。


その言葉を眺めていて

ふと壁を見つめると

地球暦の今年のテーマが目に入りました。

それは…

『新しい時間の贈りもの−私たちは今、どこにいるのか。−』

です。


いやー、これ

何かのサインですよね、絶対。


あ、サインっていうのは

自然からの僕への贈り物です。

言葉を発しない自然さんが僕に与えてくれるヒントのようなもの。


うー、

どこにいるんだろうなぁ…!



僕も、みんなも。

2014年4月10日木曜日

老子と日本人、そしてインディアン。

最近、わたくし

老子にハマっております。

もっといえば

老子に関する本をたくさんだされている

加島祥造さんにハマっております。


今日も

『肚−老子と私−』


『「老子」新訳』










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を読みました。

加島さんの表現や世界観が大好きです。

『アーユーフリー?』という新刊もとても面白く

定期的に読んでいます。













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やっぱり

時間の淘汰を超えてきたものには

何らかの真実がありますね!


僕は加島さんの本や最近の学びを通し

『肚』というものがとても大切な概念なのではないかと

思うようになりました。


肚とは…

二元論を超えた何か。

禅でいう『無記』

日本人が持つ精神性とでもいいましょうか。


『肚』を知る上でオススメなのは
加島祥造さんの『肚−老子と私−』
森政弘さんの『退歩を学べ』
です!


これが『肚』と言えないものなんだろうけど

少しずつ『肚』で考えられるようになっていきたい。


ちなみに

『肚』はインディアンとユングのあのエピソード


『オチウェイ・ビアノは「見てごらん、白人がいかに残酷に見えることか」といい、「彼らの唇は薄く、鼻は鋭く、その顔は深いしわでゆがんでいる。眼は硬直して見つめており、白人たちはいつもなにかを求めている。何を求めているのだろう。白人たちはいつもなにかを欲望している。いつも落ち着かず、じっとしていない。われわれインディアンには、彼らの欲しがっているものが分からない。われわれは彼ら白人を理解しない。彼らは気が狂っているのだと思う」といった。どうして白人たちがすべて狂気なのか、私は尋ねた。「彼らは頭で考えるといっている」と、彼は答えた。私は驚いて、「もちろんそうだ。君たちインディアンは何で考えるのか」と反問した。「ここで考える」と彼は心臓を指した。』

と関係があるはずです。

このエピソードは

確か『肚−老子と私−』や『イーグルに訊け』にも出てきたような気がします。
『ネイティブ・マインド』だったかな…。