2013年12月20日金曜日

宮沢賢治の世界。

こんばんは〜。

今、僕は大阪にいます。


今日の夜、とある方のポエトリーリーディング

『農民芸術概論綱要』

という宮沢賢治の作品を初めて知りました。

彼の作品は

銀河鉄道の夜
注文の多い料理店
クランボン

くらいしか知りません。


では、今日出逢った

『農民芸術概論綱要』の一部を…


世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
この方向は古い聖者の踏みまた教へた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

(http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/2386_13825.html より抜粋)


80年ほど前に宮沢賢治が綴ったもの。

だけど、今に通ずると僕は思います。

彼がどういった人だったのか、どのような観点で物事を捉えていたのか

調べてないのでわからないです。

わからないけど、何か好き。

彼の世界観が好き

僕は好きです。





ポエトリーリーディングの余韻に浸りながら

宮沢賢治を媒体に

「在り方」について少し考えてる。。



「何が本質か」それは立場によって違う。

本当は同じはずなんだけど違う。

だからこそ、今自分がどこにいるのか、何者なのかを把握することが大切だと思う。

この現実世界で生きていくためには。

「今、どこにいるのか」



その問いは自らの在り方に繋がり、その在り方がやり方、場を選択する。

もちろん場から自らの在り方へという流れもあるけど、僕には在り方からが良い気がする。

いくら場が素晴らしくても在り方がなければ、僕は場に洗脳されてしまう。。

染まっちゃう。



とにかく

宮沢賢治さんは僕の世界観を広げそうです。

感謝。有り難うございます。

2013年12月14日土曜日

日常と非日常の境目って何だろう。

久しぶりに投稿してみる。。

今日から月曜日まで福岡です。

初福岡でありまする。

空港と街が近いっていいなぁって思った次第です。

そして…

「カラスの鳴き声」が…

カァ・カァ・カァ・カァ・カァ

でした。

こっち(東京)は

カァー・カァー・カァー

って感じなのですごく面白いです。

たぶん、これは非日常空間に踏み入れたから感じたもの。

もしかしたらこの気付き自体が錯覚で

東京でも「カァ・カァ・カァ」と泣いているかもしれない。

けど、確かに僕はそう感じました。




旅。

旅は心を躍らせますね。

物事の解像度をあげてくれる手段です。

楽しい。


2013年12月2日月曜日

手話って母国語?

今日

有川 浩さんの『レインツリーの国』


という本を読みました。

真ん中の本です。

この本のなかに

「手話は補助言語とは限らないんだよ。」みたいなフレーズが書かれており

ハッとしました。


生まれつき耳が聞こえない人

ある日突然耳が聞こえなくなった人

前者にとって手話とは、第一言語

そして後者にとっての第一言語は日本語


同じ『手話』という言葉で括られていても

その使い方というよりも感覚が違う。


僕にとっての『手話』はあくまでも補助言語です。

そしてどこか遠くの国で使われている言語と同じで自分とは関係のない言語だと思っています。

ただ、それは今の僕の環境での話。

環境は人それぞれ違う。

手話は補助言語ではない人もいる。

そのことに気付かされました。

僕にとっては日本語が母国語で英語が第二言語ですが

ある人にとっては手話が母国語で日本語が第二言語になる。


もちろん本から得たもので、実際のところはわからない。

わからないからし、もしかしたらこの投稿内容を不快に感じる人がいるかもしれない。

けど、僕はこの本を通して

新しい視点を得ることが出来た。

きっと僕にとってそれが必要な視点だったからそのフレーズが心に残ったんだと思う。

常識はひとつじゃないから、それに固執するな、もっと柔軟に

ってことなのかな。



ちなみに

左の本はカフカの『変身』です。

初めて読みました。

何故、読み継がれるのか分かった気がします。

様々な観点や視点を得たい。

2013年11月15日金曜日

Think Different

アップル社が1997年に行った広告キャンペーンに

『Think Different』というものがあります。

僕は先日このキャンペーンを初めて知りました。。


Think different.



クレイジーな人たちがいる

反逆者、厄介者と呼ばれる人たち
四角い穴に丸い杭を打ち込むように、物事をまるで違う目で見る人たち

彼らは規則を嫌う
彼らは現状を肯定しない

彼らの言葉に心を打たれる人がいる
反対する人も、賞賛する人も、けなす人もいる

しかし、
彼らを無視することは、誰にもできない

なぜなら、彼らは物事を変えたからだ
彼らは人間を前進させた

彼らはクレイジーと言われるが、私たちは天才だと思う

自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが、
本当に世界を変えているのだから





このキャンペーン動画やその背景、思想を調べてると

自分、何やってんだろう…

ってなりました笑

当たり前ですけど

僕はフツーだなぁ、と再確認といいますか。


僕は

人のことが大好きで

もっというとその根底にある考え方や観点を知るのが大好きで

それでいて

人一倍自分のことが好きで

人一倍負けず嫌いで

けど

人一倍恐がりで

色んな嫌なことから逃げてます。


ジョージ・バークレーっていう人が

『存在することは、知覚されること』

って言っています。

僕は特別な存在で在りたいが故に、知覚されることから避けているのかもしれないですね。



このキャンペーンの『Think Different』

心に響くからにはそこに何かがあるはず。

もっと探求しよう。

探求しすぎて、衝動を抑えてしまう僕と向き合いながら。

2013年10月27日日曜日

全てを知ることなんて出来ないからこそ。


今年出逢った人に

ミヒャエル・エンデというドイツ人がいます。

彼は児童文学作家です。

『モモ』という本が日本では一番有名です。

僕は彼の思想が大好きです。

——なぜ、好きなのか——

それは

僕の在りたい姿と僕の抱く感情を言語化しているからです。

だから

僕にとって彼はひとつの方向性です。

彼は僕にとって学ぶべき作品であり、いずれ超えなければならないものです。



エンデについて語り出すと止まらなくなるので

またいつか機会が来たら、少しずつアウトプットしていきたい。


この記事の表題は

『全てを知ることなんて出来ないからこそ。』




まず——『全て』について——

僕はこの世界の1%もわかっていません。

全てを知ることなんて出来ません。

けど、僕はその全てを知りたいと願っています。

おそらくそれは僕の中の暴力性がそうさせているのだと思います。

支配欲求ともいえる感情です。

この世の全てを知ったところできっとその満足感は一時的なものだと思います。

けど、僕は『全て』を知りたいのです。


——なぜ、『全てを知りたいのか』——

それは、この世界の『真実』を知りたいから。

この世界がどうなっているのか。

なぜ僕は生まれたのか。

死んだらどうなるのか。

なぜ人は対立するのか。

愛するのか。

生きるとは何か。

死ぬとは何か。

それを知りたい。

だから僕は『全てを知りたい』


けど、現実的に全てを知ることなんて不可能です。

時間は有限だし、どんどんどんどん学問が細分化されてるし…

新しいものが生み出されていってるし(完全なオリジナルはないと思ってるけど)

色んなものが発見されてるし、昔から語り継がれているものはいくらでもあるし。



今、全世界で約1億3000万種類の書籍が存在しているらしい。

それは何千年前のものから今、販売されたものまで全て含めて。

僕は読書が好きでおそらく年間80-100冊は読んできたと思います。

仮に今から

年120-150冊、それを40年間続けたとする。

そうすると40年後、僕は

5,000-6,000冊読めます。

けど…

それは全体の1%に過ぎません。

『全てを知る』ということと少しズレていますが

僕は全てを読むことは出来ない。

だからこそ

語り継がれてきたものを大切にしたい。

それが正しいとは限らないけど

きっと、より人間の本質に近いものがそこにあるから。

新しいものを吸収し、語り継がれてきたものも吸収したい。


知識を吸収することも大切だけど

その根底にあるもの

つまり

『真理』『思想』『観点』等

探求したい。

全てを知ることは出来ないからこそ

その判断基準や思想を通し

この世界の『真実』と思われるものを見つめたい。

自分の不完全性を認めることから始めたい。

2013年10月12日土曜日

ホームレスの方にお話聞いてきた。【生きるのにかかるお金】


こんばんは。

という記事の続きです。


・生きていく上で必要なお金の量を知る

本でも最近目にすることが多いフレーズですが

「自分が1ヶ月生きる上で、必要なコストを知る」ことの大切さを感じました。



【あなたは月に何円あれば生きていけますか】


うーん、僕が生きていく上で固定費はどのくらいかかるのだろうか…。


そして、何にどのくらい必要なのだろうか…。


路上生活者の暮らしには、全く以て無駄がなかったです。


「自分でつくれるものは自分でつくる」


魚は隅田川で釣って、自分の生き方に合わせた家をつくって、電力はソーラーパネルで賄う。

隅田川で色んな魚が釣れるみたいです。

竿がいつくかあって僕がお話を聴いている時も釣り糸が川の中にありました。




そこは、東京なんだけど

僕の知っている東京ではなかった。

きっとこれはホームレスの世界だからそういえるといったような話ではなく

僕がお金持ちの人の生活をみてもそう感じると思います。

つまり、人の数だけ世界があるってことだと思います。

友人・知人との間には共通点(を感じる)が多いからそのことに気付かないだけの話だと思います。


ホームレスの世界は

資本主義社会と同居しているので完全にそれから独立した社会ではないし、それに依存しているから今後どうなっていくのかわからない。

けど、僕の生き方のヒントがある気がします。

【僕にとって本当に必要なものとは…】

少しだけ世界が広がった気がする。


・心に残った言葉と雑感

・「路上生活者に話しかけてくる奴はほとんどいない。」
話しかけてくれる人の多くは「殺すぞ!」等の罵声らしい。「いつ殺されるかわからない。誰もいないところで寝ることは出来ない。」とも


・「死体が川に浮かんでいることも稀にある。この前そこで首つりがあった。覚悟がないとこの生活はできない。」


・「人間、生まれたからには生きたいだろ、そりゃぁ。」(今日、一番響いた言葉です。)


・「何度か『死のう』と思ったこともある。」

・「人間1人じゃ生きられねぇ。」「仲間は有り難い。」


・「俺らみたいになるんじゃねぇぞ。」



世の中、色んな人がいます。

それを受け止めるか、受け入れるか、受け入れないか

それは個人の自由です。

そのことを否定することだけは避けたい。

僕も人間だから、人に対し「ムッ」としちゃうけど

『一人一人の判断基準を尊重する』っていうところに落ち着きたい。

僕の判断基準も尊重し、みんなの判断基準も尊重し。



最後に
今日お会いした方は

今まで出逢ったことの無い雰囲気の目を持つ方でした。

目は興味深い。

また遭いに行こう!


おやすみなさいZzz…

2013年10月11日金曜日

ホームレスの方にお話聞いてきた。【ホームレスの“ホーム”って何だろう。】

今日は、路上生活者の方にお会いしてきました。

坂口恭平さんの本を読み、直接話してみたくなって。

さて…

今日考えたこと、感じたこと

そして、本を読んで得たこと等を

いくつかに分けて書いてみます。

・「ホームレス」という言葉の罠
・「稼ぐ」ということ
・生きていく上で必要なお金の量を知る
・心に残った言葉と雑感

こんな感じに


・「ホームレス」という言葉の罠

言葉は不思議なものです。


僕らが相手と意思疎通を図る際、多くの場合「言葉」を用います。


便利な道具です。


だからこそ、その言葉が「問題」を生む原因のひとつでもあるという視点を忘れてはならないと思います。今日、そんなことを思いました。

決して僕は言葉がなくなれば良いなんて思っていません。

ただ、言葉の不完全性について認識しておくべきだと思います。

——言葉は絶対なのか——


「言葉」というものは“それ”と“それ以外”の2つに分断する行為であり、その結果です。


「ホームレス」という言葉をこの観点でみると、何が起こるか。

それは

「ホーム」の有るものと無いものの2つのものを生み出す、ということ。


では、ここで言う「ホーム」とは一体何なのか。


何を指しているのだろうか。。。

果たして、『ホームレス』は

——ホーム“レス”なのだろうか。——


——“ホーム”レスなのだろうか。——




今日、話した感じ「ホームレス」に「ホーム」はあるような気がしました。

もちろんその「ホーム」は僕らの世界での「ホーム」とは違いますが、確かにそこに「ホーム」があったような気がします。

言葉遊びでした。




・「稼ぐ」ということ

今日、お話をしてくださった方が興味深い話をしてくださいました

それは路上生活者の中には「月に30万円稼ぐ人もいる」という話です。


そしてその方の稼ぎ方の知恵です。けど、その稼ぎ方は内緒です…★


路上生活者の主な収入源は『空き缶拾い』であると思っている方が多いと思います。


実際、それは事実らしいです。

多くの路上生活者がそれで生計を立てているみたいです。
(今日お話ししてくださった二人の稼ぎ方はそうではないので二人はマイノリティでした。)
どうやって稼いでいるかは秘密です…笑



——アルミ缶でいくら稼げるんですか——


結論から言うと

『アルミ缶2個で1円』だそうです。


路上生活者の平均として一日4,000〜5,000円稼ぐそうです。


その稼ぎ方が何とも面白い。


路上生活者はそれぞれいくつかの提携先があるそうです。


つまり、マンションや個人宅、そして飲食店、宿泊施設の管理人と契約(もちろん紙ではなく口で)しているというわけです。

Aマンション●●●個/週
Bマンション●●●個/週

(単位は個ではなく袋だけど)

各々が収入源を確保しているので、多少の増減はあるみたいですが収入自体は安定しているらしい。


この話は、坂口恭平さんの本にも出てくるので
聞いた瞬間「本当なんだ!」って感じました。

アルミ缶拾いだけで大学生の月平均のバイト代くらい稼いでいるなんで驚きです。


僕の『働く』の幅が広がった気がします。

というより

『稼ぐ』っていう言葉の幅が広がった気がします。

お金は稼いで、お金を頂く気持ちを大切に、、ですかね。

2013年10月10日木曜日

僕を構成している本たち

読書の秋。

【僕の大好きな本 5撰】
・『生くる』執行 草舟
・『仏教新論』森 政弘
・『メメント・モリ』藤原 新也
・『手紙屋~僕の就職活動を変えた十通の手紙~』喜多川 泰
・『道をひらく』松下 幸之助

【表現に憧れる編・エッセイ】
・『そして生活はつづく』星野 源
・『東京百景』又吉 直樹
・『旅の窓』沢木 耕太郎
・『新編宮沢賢治詩集』宮沢 賢治

【惹かれた編・自伝】
・『福翁自伝』福沢 諭吉
・『ボクの彼氏はどこにいる?』石川 大我
・『チャップリン自伝』チャップリン
・『こんな僕でも社長になれた』家入 一真

【ドキドキする人生編・小説】
・『トリツカレ男』いしい しんじ
・『アミ 小さな宇宙人』エンリケ バリオス
・『容疑者Xの献身』東野 圭吾
・『ライフトラベラー』喜多川 泰
・『瑠璃色の涙』泉 ウタマロ
・『イニシエーション・ラブ』乾 くるみ
・『パラレルワールドラブストーリー』東野 圭吾

【その考え方ステキ編・思想】
・『五輪書』宮本 武蔵
・『イーグルに訊け』天外 伺朗、衛藤 信之
・『未来を予見する5つの法則』田坂 広志
・『諦める力』為末 大
・『老師と少年』南 直哉
・『孤独のチカラ』斉藤 孝
・『問題は「タコつぼ」ではなく「タコ」だった!?』友成 真一
・『独立国家の作り方』坂口 恭平
・『お金が教えてくれること』家入 一真

【このスタンス憧れる編・自己啓発】
・『幻年時代』坂口 恭平
・『未来を拓く君たちへ』田坂 広志
・『自由であり続けるために 20代で捨てるべき50のこと 』四角 大輔
・『一歩を越える勇気』栗城 史多
・『常識を疑うことから始めよう』ひすい こたろう、石井 しおり
・『減速して生きる』高坂 勝

【死ぬということ、生きるということ・編】
・『いつまでも、いつまでもお元気で』知覧特攻平和会館
・『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』井村 和清
・『たとえ明日世界が滅びようとも』藤原 新也
・『人生の成功とは何か』田坂 広志
・『恐山』南 直哉
・『夜と霧』ヴィクトール フランクル

【テレ東でたまに特集するようなテーマ編・オカルト】
・『それは“在る”』ヘルメス・J・シャンブ
・『未来は選べる!』バシャール、本田 健
・『あの世に聞いた、この世の仕組み』雲 黒斎
・『アナスタシア 』ウラジーミル メグレ

【写真集編】
・『Walkabout』竹沢 うるま

【絵本編】
・『ひとりごと絵本』100%ORANGE
・『ある日、犬の国から手紙が来て』
・『「たからもの」って何ですか』伊勢 華子

【よくわかんないけど好き編】
・『職業治験』八雲 星次
・『遊んで暮らす コレジャナイ仕事術』ザリガニワークス

【浪漫があるねぇ編・科学】
・『単純な脳、複雑な私』池谷 裕二
・『宇宙授業』中川 人司
・『「つながり」の進化生物学』岡ノ谷 一夫
・『進化しすぎた脳』池谷 裕二

おそらく、今の僕の頭の中はこの子たちで溢れています(^^)

2013年9月29日日曜日

1年ぶりに被災地へ

今日は日帰りで福島県に行ってきました。



何度来ても津波の凄まじさを感じます。

そして、あの赤い旗が何とも言えません。






ボランティア、支援のかたちも震災初期と比べて変わってきているみたいですね。

情報として知ってはいたけど、実際に足を運ぶと実感します。



話してくださった方たちの明るさや言葉の影に見える哀しみ

被災地に対し

何か僕がすべきなのか

した方がよいのか

それとも…

どういったかたちが良いのかなぁ。



震災からあと6ヶ月弱で3年。




何が嘘で、何が真実か

どの立場で物事をみるか

何を大切に思うかで

現実がいくつもあって

けど


「被災地」の一言で片付けられ
たくさんの糸が複雑に絡み合っているんだけど

それがすごくシンプルに見えるような、、、

そんな感じでした。



情報って何なんだろうなぁ。。




日帰りだったから

余計、表面的なことしか見てないし、聞けてない。

また足を運ぼう。

直接見ないとわからないものもあるし。


福島から東京に帰ってくるときにバスから見た東京の夜景が何とも言えなかったです。


おやすみなさいZzz…

2013年9月25日水曜日

常識って何だろうなぁ、、、

「社会人としての常識を身につけろ」

その言葉を聞いて素直に受け入れることの出来ない僕です。



常識というものは

効率よく日常を回す手段であり

問題を見ないようにする約束事であり

ところ変われば通用しないものであり

思考行動をやめるということでもある。

そして

とても便利なものであり

空気のような存在である。




僕にとっての常識ってそんな気がします。




だから

僕は「そんなこと言ったって社会では生きていくことはできない」

と言われる。




わかってるよ、わかってるけど

その常識が幸せな社会を生んだの?

って

その常識によって

誰かが苦しい想いをしている可能性はないの?

って

聞きたい。





けど、

「最近の若者は…」と言われる。

別にいいんだけど

何か悔しいなぁ。





常識はいずれ腐るものだと思います。

中には守られていくものもあるだろうけど

それはおそらく「常識」というラベルから他の「ラベル」に昇華していくと思います。

2013年9月17日火曜日

僕って何人いるのだろうか…!

僕ってどれだけ僕のことを理解しているのだろう。。

ふと、そう思うことがある。

だって

僕の意識している世界っていうのは僕の意識していない世界、無意識に比べたら

かなり小さいものだから。


日常生活を考えてみてもそうだけど

いちいち「右手を動かす」「いやここの筋肉を動かすの!」「第一関節を曲げて」ってことを考えてたら

何にもできなくなっちゃうもん。

全てを意識したら何も出来なくなるんだろうなぁ。

だから

無意識っていうのはとても便利な機能だと思うんです。

と同時に怖いなぁって。


自分の知らないところで僕の中の誰かが、何かが

しっかりと作業をしてるんだもん。


僕はどれだけ僕のことは理解しているのだろうか…。

そして

全てを理解する必要はあるのだろうか…。


そう考えていくと、人ってある意味みんな人格が複数あるんだろうなぁ。




つぶやきメモみたいなブログでした!

2013年9月13日金曜日

部分的なものの見方。

自身の発信力。
facebookとTwitter、そしてこのブログ
それぞれ違うから面白ーい。



さて

僕のなかにある多次元空間をこの世界で表現するため言語化を試みる。

すると、それは一気に次元を下げ部分的なものになっていく。

「本当はそういうこと言いたいんじゃないんだけどー…」
「あー言葉が見つからないよー…」
「いや、それじゃない…」

自分の至らなさがそれを招いているんだけど、同時に言葉の限界も感じます。
言葉についてはまた今度。


次元。

アインシュタインの言葉に

『我々の直面する重要な問題はその問題を作ったときと同じ考えのレベルで解決することはできない』

っていうものがあるらしいです。

アインシュタインすごいっす。

同じ次元で物事を見てるから

部分的になったり、違いばっかりに目がいったりするんですよね。。

僕らの脳がそうさせているから仕方のないことなんだけど

部分的な世界を全てだと思う人が多いのが少し気になります。

僕らの認識している世界は所詮、部分的なんです。

(紫外線や赤外線まで見れたら何だか忙しそうだなぁ…笑 まぁ、でも慣れるか)


部分的だけど、僕らはその「部分」しか認識出来ない。

《認識出来ない》

ここで分かれる気がします。

《認識出来る世界が全て》と《認識出来ない世界も存在する》に。

どっちも正しいと思うけど

僕はやっぱり後者ですかねー。

厳密にはちょっぴり違うけど、ほぼそれです。


結局、僕らが知覚している世界は

幻覚にすぎないんだろうけど

目の前にしっかりと存在しているから

ちゃんとそれらを意識していきたいですね。


もう現実が全てだ、という次元じゃないと思うんだけどなー。

僕はまだまだアノマリーなんだろうなー。

2013年9月9日月曜日

経験を投入して、それは“在る”

突然ですが

それは“在る”
※そういう題名の本もありまして。面白かったです。

最近、それ系の本をよく目にするので色んな人が本質を見つめてるんだなぁって思います。


ということでこの記事は

ただ“在る”

について。


仮に現実がただ“在る”ものにすぎなかったとしたら…

僕の20数年の意識を投入することで

それは“僕の世界”となる。

僕が作り上げた世界。

つまり

意識の数だけ“私の世界”が存在していることになる。。

その意識が無数に重なり合ってるのがこの現実(感覚)


と思うと面白い(^^)

どこかに小さなズレがあるはず。

そのズレをもっと探してみたーい。


浪漫あるー、わくわくするー、仮想現実の世界。



意識と言えば

自分の意識を自分では把握しきれないところも面白いですよね。

無意識はどこまで意識の影響を受けるのか。

意識はどこまで無意識の影響を受けているのか。

「何も考えない」ことが僕には出来ないから、意識は思った以上にちっぽけなんだろうなぁ。

「何も考えない…何も……考えるな……あれ…考えてる…うわー…」

みたいな笑

2013年9月7日土曜日

意識を投入するということ。

おはようございます(^^)

さっき、人の特徴は「疑問力」である、と何かの本に書かれていたことを思い出しました。

なので、ちょっとした僕の疑問について。



僕が、物事を捉えるとき

複数の視点が同時に存在しています。

ひとつは
目の前の物は、絶対にそこに存在している。条件が変わろうともそこにある。

もうひとつは
目の前の物は、僕が全て創り出した物であって目を閉じるとそれは消滅し目を開けるとそれは存在する。

他にもある気がするけど主にこのふたつです。

矛盾するようだけど、僕の中に確かにあるもの。

最近は、どちらかというと後者の勢力が大きいかな。

ひとつだけ存在しているのではなく、複数が同時に存在していて

場によって、それらの濃度が濃かったり薄かったりしています。



前の記事

あの頃の感覚は蘇ってきたけど、映像が時々それについてこない話で少し触れたけど

僕にはひとつの大きな疑問があります。

それは

「自分の見ている“赤”と他人の見ている“赤”は本当に同じなのだろうか」ということ。

つまり、僕らは本当に同じものを見ているのか、ということ。



同じ言葉でそのものを締め付けているので

相手に確認しても「赤だよ」と返ってくる(はず)。

それが赤なのはわかるんだけど、、、

同じものをその言葉は指しているのだけど、、、

果たして本当に僕の見ているものと、他の人が見ているものが同じなのか僕にはわからない。

絶対に同じ、と言う自信がない。

僕は僕を超えて、他の人になれないから。。

仮に自分の脳がこの現実を作ってるのだとしたら

僕の脳を超えなければその答えに出会えないんだよなぁ。。




だから

僕は

相手を

自分を

信じるしかないんですね。

それしか今の僕にはできないっす。

仮に違うものを見ていたとしても

同じ言葉でそれを表現するという約束事があるから

日常生活に於いて、僕の疑問はただただ無駄っす。

だけど、それがどうしても気になってしまうのが僕です(笑)





雨強ーい、楽しい一日を。

では〜

2013年9月4日水曜日

あの頃の感覚は蘇ってきたけど、映像が時々それについてこない話。

最近、好きな作家さんというか建築家というか音楽家というか人がいます。

坂口恭平さん


坂口さんの世界観や目線、雰囲気が好きなんです。

写真の『幻年時代』を今日、また読みました。

そしたら…

タイトルの状態になりました笑

『あの頃の感覚は蘇ってきたけど、映像が時々それについてこない』



先月30日、坂口さんのトークライブが池袋であって参加してきました。


生の坂口恭平は——何か良く分かんないけどやっぱスゴいわ——ってなりました。

トークライブは僕にとって、「どしゃ降り」でした。

今、感じる「どしゃ降り」ではなく、小学校の帰りに側溝に水が溢れて思わず中に入り喜んでいるときの「どしゃ降り」です。

トークライブで印象に残っているものは
※トークライブは『幻年時代』の刊行記念です。

・知覚の解像度を高めたかった。
・毘沙門天のモバイルハウス
・サナギの中は液体
・自分自身が変化し続けている。それを受け入れない人が多い。
・風が抜ける

かなぁ。

改めて今日『幻年時代』を読んで

普段僕が知覚していない世界が感覚として蘇ってきました。
それは映像を伴ってくる場合もあるし、感覚だけのやつも。


いつのまにか僕は

物事に『線』を引き、自分の舞台を作っていた。

現代を生きていく上で必要なこと(なのかもしれない)。

けど、それはある条件の下の世界観であるということを認識する必要もあると思う。


いささかオカルトチックな話になるけど

量子論や超弦理論(詳しいことは全く知らないけど)の観点からみた場合、僕らが知覚している世界などそこに存在しない。

そして

音や電波は僕らの目では認識出来ない。

けど、僕らはそれを使っている。


「自分の見ている“赤”と他人の見ている“赤”は本当に同じなのだろうか」

トークライブでこんなような話が出た。

「あぁ、そういえばこの“問い”に悩んだ時期が僕にもあった」ということを思い出す。

いつの頃かハッキリと覚えていないけど、僕もこの“問い”に出会っていました。



“赤”という言葉でみんなが認識している“それ”は、確かに“赤”である。

しかし、果たして本当に“それ”同じ“赤”なのか。。。

美術の授業を思い出すので、きっとその時に出会った“問い”なのかもしれません。




そうだった、そうだった。

小さい頃僕は、ひたすら自分の『裾野』を広げていました。

自分が遊び場になってました。

その遊び場は、立体的でどこまでも広がっていました。

ピコピコとゲームもしてたけど、僕はそういう遊び場が好きでした。


それがいつの間にか

常識が絶対であると思い込み、物事に『線』を引き

そのなかで苦しんだり、楽しんだりしていた。

結果、僕の中で遊びが薄くなっていった。。


今の自分の舞台が時々、苦しいから

僕は自然を求めたり、未知に出会ったり、「0」に出会うために足を動かしていたのかもしれない。


ある観点からみると

それは《逃げ》に

それは《自由人》に

それは《自分探し》に

それは《甘え》に

それは《最近の若者は》に

・・・


まとまりのない文やなぁ。。

何が言いたいのかな…

ん?何が言いたいんだ…

・・・

《自分の幅を広げる場》を

裾野を広げる経験を

していきたいです。

あと

自分の感覚と今の映像が重なる層を探していきたいです。


おわり