最近、好きな作家さんというか建築家というか音楽家というか人がいます。
坂口恭平さん
坂口さんの世界観や目線、雰囲気が好きなんです。
写真の『幻年時代』を今日、また読みました。
そしたら…
タイトルの状態になりました笑
『あの頃の感覚は蘇ってきたけど、映像が時々それについてこない』
先月30日、坂口さんのトークライブが池袋であって参加してきました。
生の坂口恭平は——何か良く分かんないけどやっぱスゴいわ——ってなりました。
トークライブは僕にとって、「どしゃ降り」でした。
今、感じる「どしゃ降り」ではなく、小学校の帰りに側溝に水が溢れて思わず中に入り喜んでいるときの「どしゃ降り」です。
トークライブで印象に残っているものは
※トークライブは『幻年時代』の刊行記念です。
・知覚の解像度を高めたかった。
・毘沙門天のモバイルハウス
・サナギの中は液体
・自分自身が変化し続けている。それを受け入れない人が多い。
・風が抜ける
かなぁ。
改めて今日『幻年時代』を読んで
普段僕が知覚していない世界が感覚として蘇ってきました。
それは映像を伴ってくる場合もあるし、感覚だけのやつも。
いつのまにか僕は
物事に『線』を引き、自分の舞台を作っていた。
現代を生きていく上で必要なこと(なのかもしれない)。
けど、それはある条件の下の世界観であるということを認識する必要もあると思う。
いささかオカルトチックな話になるけど
量子論や超弦理論(詳しいことは全く知らないけど)の観点からみた場合、僕らが知覚している世界などそこに存在しない。
そして
音や電波は僕らの目では認識出来ない。
けど、僕らはそれを使っている。
「自分の見ている“赤”と他人の見ている“赤”は本当に同じなのだろうか」
トークライブでこんなような話が出た。
「あぁ、そういえばこの“問い”に悩んだ時期が僕にもあった」ということを思い出す。
いつの頃かハッキリと覚えていないけど、僕もこの“問い”に出会っていました。
“赤”という言葉でみんなが認識している“それ”は、確かに“赤”である。
しかし、果たして本当に“それ”は同じ“赤”なのか。。。
美術の授業を思い出すので、きっとその時に出会った“問い”なのかもしれません。
そうだった、そうだった。
小さい頃僕は、ひたすら自分の『裾野』を広げていました。
自分が遊び場になってました。
その遊び場は、立体的でどこまでも広がっていました。
ピコピコとゲームもしてたけど、僕はそういう遊び場が好きでした。
それがいつの間にか
常識が絶対であると思い込み、物事に『線』を引き
そのなかで苦しんだり、楽しんだりしていた。
結果、僕の中で遊びが薄くなっていった。。
今の自分の舞台が時々、苦しいから
僕は自然を求めたり、未知に出会ったり、「0」に出会うために足を動かしていたのかもしれない。
ある観点からみると
それは《逃げ》に
それは《自由人》に
それは《自分探し》に
それは《甘え》に
それは《最近の若者は》に
・・・
まとまりのない文やなぁ。。
何が言いたいのかな…
ん?何が言いたいんだ…
・・・
《自分の幅を広げる場》を
裾野を広げる経験を
していきたいです。
あと
自分の感覚と今の映像が重なる層を探していきたいです。
おわり