2014年7月28日月曜日

ヴィジョン それは、己のすべて

前回、最後の葉書としましたが、、、

どうしてもこれだけは書き記しておきたく投稿。

僕は今、インディアンなるものにとても惹かれています。

それは

僕に在るもの

そして

僕が失ってしまったもの

僕が何故、この時代に生を受けたのか

何故、日本と形容されるこの土地に生まれたのか

己がこの命をかけ、探求すべきものは何なのか

奴隷となった僕らがかろうじて紡いでいるネイティブなるもの

それを紐解くひとつの道。

言葉、概念なんてどうでも良い。

しかし

人は言葉に依らなければ、難しい。

言葉は

力が強い故、誤ると

自らへとその刃を向ける。

言葉には

羽根がついていて

それが

あなたのもとへ飛んでゆく

そのようなもの

・・・

『大切なのは血ではなく生き方だ』

大いなる神秘は

その人にわかるように問いかける。

お前は誰だ

お前は何だ

何がお前だ

自然とは何か

地球とは何か

生とは、死とは何か



それは何処で語られるかわからない

しかし

何か重要なことが語られたことは“わかる”

・・・

今、僕がそれを語るには足りないことが多すぎる

前回の葉書でこのようなことを書きました。

【3年後のキミへ〜最後の葉書を贈ります〜Re-member】


ここに書かれていること

それが正しいかどうか、それはわからない

しかし、今この地点に在る僕にとり

違和感のない言葉が此処には書かれています。

何故、3年後なのか

何故、あのような表現なのか

たぶん、きっと…

・・・

全ては今、この瞬間の出来事

All my relations

自らに依り、その全ては経験によってのみ語られる

その孤独に、未熟さに、そして美しさに生くる

それでは

これにて

28 July,2014 風の香り。

2014年7月24日木曜日

【3年後のキミへ〜最後の葉書を贈ります〜Re-member】

今、僕がそれを語るには足りないことがいっぱい。

生きることそれ自体には

足りていないことなんて何ひとつなく

ものすごく満ち足りている
(吾唯足知)

けど

それを語るには足りないことが山ほどあるね。

仮にそれを『神秘』と名付けるならば
(ワカンタンカ)

僕は風になりたいな
(ミタクエオヤシン)

自分がどこに居るのか

そんなことはどうでもいいよ。

問われるのは『在り方』だよ。
(ヴィジョン・クエスト)

何かに追われているならば追われれば良いし

苦しいなら苦しめば良い
(自分を信じて)

笑いたいなら笑えば良いじゃん

それが自然体であるならば、きっと大丈夫。
(ソース)

もし少しでも“なんか違う”という感覚があるならば

僕らと共に

空を観よう
水に全てを委ねよう
火を媒介に語ろう
風の声を聴こう

いつか必ず、自然と身体が笑っている状態を掴めるから。
(インナーチャイルド)

自己の中にある矛盾を受け入れたとき

自分が、世界が完璧ではないことを悟り
(我知無知)

そして

世界が完璧であったことに気付くと思う。
(ワンネス)

その上で、ただ一人の人間として

普通にこの世界を生きていくことになるはずだから。
(スターチャイルド)

しかしその世界は今までとは明らかに何かが違う。

そう

キミにはもう頭がない。
(クリティカルポイント)

あるのは肚だ、その美しい肚だけがそこにある。

キミは肚で、ハートで全てを紡いでいるから
(タオ)

切り口は
禅でもインディアンでも陰陽五行でもタオでも神道でも縄文でも量子力学でも何でも良い。

なんでも良いけど

ただひとつ、ただひとつだけ。

【それでもあなたの道を行け】
(虹の戦士)

とにかく、ここで僕は終わらないし、終わらせない。
(シンギュラリティ)

最大の味方であり、超えなければならない最大の相手であるキミへ

Re-menber…再び出逢いましょう!
(ネオテニー)

All You Need Is Love...

24 July,2014 Hiro 森 大樹 

2014年7月17日木曜日

一生来ることのない将来について

こうぷらぷら生きていると

「そんなんで大丈夫?」とか「将来どうするの」とか

「今、何をしているの」とか色んなこと聞かれるんですけど

正直なところ、、

「大丈夫じゃないっすか〜、へへっ」って感じなんですよね。

別に僕は夢に生きているわけでもないし

未来を生きるわけでもないし

何をしているのかっていうものより大切なものがあると思っているし。。

まぁ、ただこのような考え方が一般的には受け入れられないのも事実なので

如何に、相手にわかりやすく納得してもらえるのか

ということは意識していかないといけないのかな、って思います。


僕らはただただ

今を感じていたい。

この世界の美しさを感じていたい。

美しさを人と共有したい。

僕らの見つめる世界

シンプルでとても美しい重層構造を共有したい。

そして

大地とともに生きる人を増やしたい。

その人がその人として

自然体を生きる、ありのままを生きる

そういった世界になれば僕らはそれでいい。



過去は智慧の宝庫

未来は矮小化された自己の最大限のイメージ

先人は僕らに智慧を語り、

後に生を受けたものは僕らに未来を見せてくれる


世界はそもそも矛盾を孕んでいて

完璧じゃないことを悟ったとき、世界は完璧だということを感じる。
わからないことをわかろうとしなくなったとき、わかるようになる。

だから

もっとシンプルに世界を覗こう

奏でよう僕らの未来を

地球に還ろう



2014年7月16日水曜日

僕について②「熱中っていう言葉がわからなかった」

ある時

「類は友を呼ぶ」という言葉を知りました。

その時、初めて「僕の居る場所」を

「僕が何処にいるのか」ということを知りました。

教室に入り、誰と話しているのか

失礼な言い方ですけど

僕が居たそれは

僕の求めていた場所、思い描いていた場所ではありませんでした。




「僕ってこんなとことに居たんだなぁ」って思いました。

頭の中で描いていたものとあまりに離れていて驚きました。

ショックという感情はなかったんですけど

そのことに気付けなかった自分が嫌でした。

情けなくて、自分のことを知らなすぎて。

同じ頃だったと思います。

人生で初めて、人の感情のはけ口、その対象になった

という経験をしたのは。



悲しかったですね

小学生当時、両想いだった子がその輪の中に居たので。

でも、僕はそのことを誰にも相談せず

以前と変わらぬように学校に通い続けました。

そのことを今、こうして振り返ってみて

それでも普通に学校へ通っていたということを考えると

きっとそこまで大したことではなかったのでしょう。



自分の人生を自分事として歩んでいたら

変に繕った「仮面」をつけることなく

みんなと同じような「仮面」をつけた人生を歩んでいたのかな。

感情の吐き出し方、表現の仕方がわからない人間には

ならなかったと思います。

僕は自分の人生、他人事でしたね。


「心、此処にあらず」

という言葉があります。

気付けば大学生になるまで僕はずっと「心、此処にあらず」でした。


僕にとって高校生活ってほんの数秒です。

言い過ぎかもしれませんが

思い出というものが浮かんでこないことをみると

時間軸としてそんなものかもしれません。


まぁ、過去という極めて曖昧な存在をどう捉えているのか

それによって時間の感じ方は変わってくるので

一概にその「数秒」という表現をどう受け止めたら納得解を導き出すことができるのか

わからないですけど。


そんなわけで

事柄に対する思い出が僕はほとんどないのです、高校時代の。

あるとすれば

感情の思い出です。



「逃げ続けたなぁ、おいら」という思い出。

どうすれば「傷つかないか」

これが僕の判断基準だったような気がします。

もはや基準ではなく

結果「傷つかない」選択をしていた

という感じです。

ただ、それは瞬間瞬間「傷つかないもの」であって

結局、自らを深く傷つけていたんですけどね。


部活、先生、家族、そして人から

本当にたくさんのものから逃げていました。

高校時代よく、一日しか学校を休まなかったなぁ

って思います。


どこにも居場所を感じることのなかった、できなかった僕は

「日常」という虚構そのものに居場所を見出していたのかもしれません。

『ただ、こなす』

それが僕にとって日常でした。居場所でした。

演じるわけでもなく。


そして「熱中」という言葉にすら逃げてしまっていたのです。

祖父母という唯一の居場所を僕は求め

東京へと逃げてきました。

続く


〜追伸〜

「熱中」することがなくても

日常をただこなす人生も

他人事の人生も、挫折も

自分のことさえ嫌いにならなければ大丈夫なのかなぁ

って今は思います。

本当に辛いのは

自分のことが嫌いな時だから。たぶん。

まぁ、生きるって

きっとそういうことを抱えて生きていくことだから

生きることを諦めない限り

辛いことから逃れることはできないと思いますけど。

孤独や虚無感、嫉妬や絶望…。

これらの先にしか幸福はないと思うので

生きましょう、生きて生きて生きてやりましょう。

自分が自分に負けてなるものか



自分が嫌いでもいいんだよ、それが凶器にならなければ

へへっ

2014年7月11日金曜日

僕について①「そこそこの努力で繋がれた自分」

ある程度、テスト前に勉強すれば

そこそこ上位の成績を取ることが出来ました。

運動神経というものも悪くなかったです。

むしろ、良かった方だと思います。

あまり苦労に触れる機会がなかった

それがきっと僕の源流に繋がる雫のひとつになっています。



今、こうして振り返ってみると

小さい頃、小学生の頃かな

そのくらいのときに何かひとつ挫折を味わっていれば

今の僕はもう少し強かったかもしれません。



強いとか弱いとかそういうものに対して

こだわりはないですけど

ただ、もう少し早く自分と向き合うことが出来たのではないか

と思うんです。



苦労に触れる機会がほとんどなかった人生だったので

特に「熱中した」ということもなく

ただ「無気力な日々」を過ごしていました。

努力を知らない人間でした。



小学生の時はそれで良かったんです

全てにおいて、結構出来たから。

ほら「足の早い子」って異性にモテたでしょ。

きっと自分に酔っていたのだと思います。

「できた」から、「できてた」から。



けど、中学生の頃からかな

環境が変わってきたのは。



僕に出逢ったことのある人は知っていると思いますが

僕、背が低いんですよね。

どうあがいても、体格差というものは埋めることができません。

徐々に今までの自分像を【維持】することが難しくなっていきました。

僕の中で自分というものの存在が消えたひとつの時期です。



少しずつ

人から注目されなくなっていきましたね。

そう思っているのは自分だけで

他の人はそんなこと気にする事柄じゃない

っていうのはわかってます。



けど、

当時の僕はそこまで想いを巡らせることは出来ませんでした。

寂しかったですけど、注目が薄らいでゆくのは

仕方のないことです。

でもそれが「挫折かどうか」と問われたら

そうではないと答えるだろうし

人もそう思うでしょう。

どうすることもできず

僕は逃げていきましたよ。



「現実」というものから

そうすれば傷つくこともないし。


逃げた先にあったものは

「好きなもの」ではあったけど
「心から好きなもの」ではなかったんです。

・桃鉄 駅を買い占め、一人勝ちをする。一人だけ億万長者になる。
・A列車で行こう 巨大な街を作る。
・パワプロ マイライフで賞を総なめし、成績も圧倒的に1位になる。

どれも「バーチャル」に頼った僕の存在の誇示です。

それもすばらしい自分であるというわかりやすい指標【数字付き】の。

続く。

2014年7月4日金曜日

エリュシオンの野は此処にある

今、京葉線の通勤快速で東京に向かっております。

蘇我駅から新木場駅まで

29分間、11駅もノンストップで驚いています。

昨日は小学中学時代に習っていた合気道の道場を約10年ぶりに訪ねました。

そして、冬季の素足マラソンのルートまで足をのばしたり

九十九里海岸までドライブしたりしました。



さて、

正直であること
素直でいること
本気になること
丁寧に見ること


そして

手放すこと
受け入れること



これらの言葉の真意とは何か

そのことを電車に揺られながら考えています。

どうやら

この子たちの真意と重なるとき

近づくとき

己の状態はものすごく心身ともに軽いみたいです。

肩の力が抜けている状態といっても良いかもしれません。

(何かに集中していて、ふと気付くと肩に力が入り肩が上がっていた、硬直していたことってありませんか。)



話が少し逸れます。

加島祥三さんが書かれた『老師 新訳』という本にざっくりと次のようなニュアンスの文が載っています。

死んだものは硬く、生けるものは水のような軟らかさがある。

さきほどの

手放すこと
受け入れること


きっとこの子たちも

そうなのかもしれません。


つまり

手放すこと
受け入れること


そのどちらも

自分の心が、その現象としての身体

硬直している場合

真のそれではない、と。



少し角度をズラすと

力が抜け、委ねた状態(結果の姿、後から形容する姿)になっているとき

それはそれ自身となり、それ自身で在る。



別の表現をすると

"境界"そのものが宙に浮かんでいる状態になっている。


正直であること
素直でいること
本気になること
丁寧に見ること



今、この瞬間に起こっている感覚や感情を正直につかまえ

素直にそのまま、ありのままを受け入れて

丁寧に意識を向ける

逃げずに、遠ざけずに本気で

そのとき

何か自分にとって大切なものが浮かび上がる。



世界は崩れ落ちず、自分と何か自分なるものが浮上していくしてくる。

これが

手放すこと
受け入れること


を詩的に捉えた姿なのかもしれない。



それをどう作り出すのか

起こるようにするのか

舞い込んでくるのか



それは今の僕にはわからない。

なぜなら

自分が経験したことがないから

ただ追体験をしているというだけなので。



では、今日も一日

心を込めて

ま、いっか

仕方ないなぁ、へへっ

と穏やかに

2014年6月29日日曜日

夢の住処は、鞄の中に

おはようございます(^^)

夢が現実感を伴っている日がここ2週間ほど続きます。

上手く言えないのだけど

なんか、、

夢が夢じゃないっていうか
夢は夢なんだけど・・・

夢の中でもうひとつ

別の人生、世界に身を置いているような感覚

以前のそれとの違いは

会話が、やり取りがとても具体的っていうこと
あと夢自体をよく覚えているっていうこと

今日起きた時に覚えている夢の一部、情景とフレーズ
・どこか旅をしている。ひとりではなく女の人とふたり
・その人をおんぶして歩いている
・祭り、露店の中を走ったりしている。何かを求めている
・小学校の友人が登場してくる
・大きいお風呂に浸かり、顔だけを出し、他の部分は水に委ねている
・何かから逃げている?誰かに追われている。
・見つかり、僕の生き方について今回見た夢で会話を交わした人たち、また過去人生において出逢った人たち、俳優の人たちが話している。生き方というか未来どう在るのかについて。
・「“ほにゃらら”は敵だ」というフレーズ
・「自分を信じて生きろ」というフレーズ
・誰かを守っている

“ほにゃらら”には

僕のひとつのアイデンティティなるものが入っています。

それが“敵だ”というところにはどういった意味が含まれているのか。。

おそらく想像するに

『重要なのは血ではなく生き方だ』ということではないかと。

ローリング・サンダーの言葉です、はい。


昨日は

午前中、スーパーの特売日ということで

数日前から広告を見て

ばあちゃんと「これとこれと…これ買おうね」という話をしていたものを

開店少し前にお店に行き、列に並び買いました。

主婦やってました。

その後、すぐにお出かけをし

夜10時過ぎに帰宅。

お風呂入って、色々してたらいつの間にか寝てて

日付が変わるその瞬間に、身体がブルブルってなって目覚めた。

あれ何だったんだろう。


昨日一日を通して

やはり、自分の在りたい姿を『保つ』ことの難しさを感じました。

目の前のことに追われ

瞬間の感情に支配され

今までの自分の習慣が浮上してくる。。

今までの自分を押し込めるのは難しいだろうから

在りたい姿を

習慣よりも上に浮上してくるようにしていければいいな。

もしくは

在りたい姿をいっぱい浮かび上がるようなことになればいいな!

今日も一日、心に笑顔を

2014年6月28日土曜日

望遠鏡や顕微鏡で見えないもの。

おはようございます(^^)

昨日は20キロくらい歩きました

久々に10キロを超える感じで

身体は疲れたみたいだけど

心は晴れやか


自分の活動範囲

その大凡の限界を知ることは清々しいものです

昔の人は10里、40キロくらい

歩いたと知って

日本の伝統食はスゴいなぁ

丹田を意識することは大切だなぁ

と感じました


散歩をしていると

色んなものが目に入ってきます

途中、何で歩いているのか

わからなくなるときもあるけど

それでも

空気や自然を肌で感じられることは嬉しい


目的地を設定し

生き方は行き当たりばったり

途中、神社に寄ったり

雨宿りしたり

人と話したり

行き止まりにぶつかったり

坂道でアスファルト以前の光景を妄想したり

鳥の羽ばたきに想いを馳せたり

虫の鳴き声に共鳴したり

自分の身体を労ったり

風に生命を感じたり

分析ではわからないこと

見えないもの

そういったものに出逢う機会をいただきます


散歩してて

自分の器が少し大きくなったことを感じたよ

まだ受け入れることのできない現実があるけど

それが自分の妄想だ、っていうのもわかっているのだけど

まだ受け入れることのできない現実があるけど

少し、ほんの少し大きくなったような気がするよ

嬉しいな

僕の長い長い空白の時を埋めてくれたようで

生きることを諦めないで良かった

有り難う、本当に有り難う



ひとり

泣き続けた

あのとき

僕を支えてくれたこの曲を

あなたへ贈ります

満天の空に君の声が響いてもいいような綺麗な夜
悲しみが悲しみで終わらぬよう せめて地球は周ってみせた




無味を悟るその先に 浮かぶ光の粒を

2014年6月27日金曜日

【幻想に顕現する僕】

昨日は夜遅くに

油そば食べました

身体には重いってわかってるんだけど

たまに、食べたくなるんだよなぁ

油そばって

大学2年生の時、以来だったかも

たまに、っていうのは

夜遅くに、っていうところに


ときどき

絶望が僕を包み込むよ

いや

もしかしたら

絶望が僕を作っているんじゃないのか

っていうくらい

ネガティブになるよ

根暗の人見知りが僕ですからね


でも

僕には、色んな僕がいるから

根暗じゃない僕もいるんだよ

人見知りじゃない僕も・・・

うーん、いないかなぁ

それは


あるがままを生きる

って

自分を生きる

って

言葉にすると軽いようだけど

難しいね

何が

あるがままで

何が

自分か、って

誰にもわかんないし

でも

人は「完全」「一貫性」を求めるから

僕は疲れちゃうなぁ

もう『矛盾ばんざーい』って叫びたいな

宇宙の1%も知らない人類の

そのまた一人の人間の

小さな存在に真の「一貫性」を求めたって

それは

砂でできたオブジェだよ


あるがままを生きる

自分を生きる

それはね

きっと

【矛盾】を生きることだと思う

その【不条理】を受け入れ

【絶望】を抱え

【希望】を見出し

全てに【感謝】を抱き

そして全てを【手放す】


【手放す】っていうと

マイナスのイメージがするけど

本当の意味の【手放す】は

ものすごくポジティブらしいよ

この前、僕の尊敬する人たちがそう話しているのを聞いたんだ

本当の意味

っていう言葉が本当に正しいのかどうか、は

わからないけど、ね


ありきたりに終わらせると

世界は、僕が見たいようにそこに在る

かな

だから

僕らは幻想に現れるのさ

自然体に自分を生きよう

自分で在ろう

2014年6月1日日曜日

2014年5月28日水曜日

「昼」考えるということ、「夜」考えるということ。

昼と夜

ひとり考え事をしていると

どうしても

昼は明るく

夜は暗く

なってしまいます。

どちらが良いか悪いかという問題ではなく

僕にはそのような傾向があるということです。

なので

夜はどうしても視点が過去に向いてしまいます。

明け方、朝、昼間に色んなことをやり考え

夜はひとりではなく人と語らうのが

僕には合っているのかもしれません。

おやすみなさい。

僕の高校時代。

夜、ひとりで色んなことに触れていると
どうしても気持ちが落ちてしまう。

みんなの輪の中に入れなかったし
入りたいという気持ちがわかなかったあの頃

正直いって
高校の同級生で僕のことを覚えている人なんて
ほんの一握りだと思う。

どう人と会話して良いかわからなかったし
どうやって笑ったら良いのかわからなかった。

ただ、学校に行き、家に帰る日々。
部活は2週間も行かずに幽霊部員。
お昼は一人で食べることが多かったなぁ。

何かに熱中したという思い出がない。
みんな「あの頃に戻りたい」というけれど
僕には「あの頃」というものがない。
【青春】というものが抜け落ちている。

人前で歌うことも出来ないし
現代文の文章を読み上げるだけで緊張する。
ましてや、人の輪に自ら入っていくことなんで出来ない。

卒業アルバムに載せる写真がなかったので
わざわざ写真屋さんに楽しそうにしている写真を撮ってもらったくらい。

僕はもともと根が暗くて人見知り。
話しかけられてもろくに返事も出来ない。

「友達と遊ぶ」
というごく普通の高校生活を送ることがほとんどなかった。

人がたくさんいるとどうしてよいかわからなくなる。
わからなくなるから、あえて反対側を選んだり
クールなキャラクターを演じてみたり。

僕はずーっと
「森君」って呼ばれ続けてきた。
中にはあだ名や呼び捨てで呼んでくれる人もいたけど
僕が仲が良いと思っていた人でさえ
僕のことを「森君」と呼んでいた。

きっと、僕はたくさんの人に気を遣わせていたのだろう。
「森君」と呼ばれ続けた僕は苦しかった。
なんで僕だけ「君」って呼ばれなきゃいけないんだろう…と。

過去はもうやり直せない。
昔は高校時代をやり直したいとか思っていたけど
今はもう、そのようなことを思っていない。

ただ…学生の人には言いたい。
悔いが残らないといことはないかもしれないけど
悔いのない学生生活を送ってほしい。
二度とないその青春を。
今という時間を精一杯生きてほしい。

今、高校時代を振り返ってみてどう思うか。
と問われたら、どう答えるのだろう…。

わからないなぁ。複雑。
あの頃があったから僕は今、僕の世界を信じることが出来ているのだろうし。
でも、、、ほんのちょっとだけでいいから
【高校生】という時間を味わいたかったなぁ。

人の輪に入れなかったという経験が
僕の中で【無視】という存在としてある。
それが今の僕の世界観に繋がっていると思う。

疎外感という感覚は本当に虚しい。

おやすみなさいZzz…

2014年5月27日火曜日

量子論

「量子論」って

最近、何かと話題ですよね。

量子論のそれ



東洋のそれ

面白いです。

真実はどこにあるのだろうか~

どのような真実であれ


僕は僕の状態に合ったアプローチをしていきたいな。

強制のない

それを。

あの法則。

僕は

引き寄せの法則について

あるだろうなぁ

とは思っていますが

信じているかって問われたら

『うーん、どうだろう…』

っていう感じです。

先日読んだ

「なぜ、あの人にばかり奇跡が起きるのか?」

という本は

その引き寄せの法則について

書かれている本です。

の法則を信じる信じないは

個人にゆだねるとして

この本に書かれている内容は

自分の感情と向き合う上で

示唆にとんでいると思います。

感情をどう捉え

感情とどう向き合うのか

良い道具のひとつになると思います。

テレビを見ていて

事件等が起きた際

マスコミは

その人の両親や出身地を訪れ

インタビューをしていますが

あれってどこから

出身地や住所を見つけ出しているんでしょうね。

いつも不思議に思います。

あと…

卒業文集を公開する

という行為にはどういった意味が

あるのでしょうか。


2014年5月26日月曜日

お風呂での時間。

僕は湯船に浸かることが大好きです。

湯船に顔まで浸かり

鼻と口だけを出し
(息を出来るように)

全身を水に委ね

考え事をしたり

ホ・オポノポノをしています。

・ありがとう
・愛しています
・許してください
・ごめんなさい

と繰り返し口にする。

・有り難う

と言っていることが多いような気がします。

別にホ・オポノポノを行なったところで

何がどう変わるというわけではありません。

強いて言うなら

心の持ちように変化が起こるくらいでしょう。

でも

気持ちが良いです。

結果的に何かが変わるということがあるかもしれませんが。


そうそう

湯船に浸かり

水に身を委ねると

何だかとても落ち着くのです。

安心感があります。

きっと

僕の何かが水のそれと共鳴しているのでしょうね。


お母さんのお腹の中

って

こんな感じなんでしょうか。

笑笑笑

『一見』という言葉から、生きることについて少し考えてみた。

今朝、読んでいた本に

『一見すると…』という記述がありました。

その言葉が、今日はなぜか心に残り

そこから

考えをぐるぐると巡らせました。

その過程をメモしたので

それを書きます。

===============

『一見』

この言葉がどこでどのようにして生まれたのか僕は知らない。
ただ…『一見』という概念を、言葉にした人の感性に深く深く尊敬の念を抱く。

そう、物事は、世界は「一見すると…○○のようだ。」ということに満ちている。
この『一見』の先にある“何か”について、思考をめぐらせる人、めぐらせている人
そういった人が、きっとこの世の中に新たな価値、世界の見方を提示していくのだろう。

人間のエゴ、お金という指標、正義という悪魔により進歩してきた現代。
その現代社会において生まれた問題を解決、解消する手だてはどこにあるのだろうか。
色々なやり方があると思うが、僕は“根源”というものが
ひとつのキーワードになってくると思う。

その“根源”という問いを自らに向ける。

“根源”とは『一見』の先にあるもの。
『一見』という皮の下に漂っているもの。

“根源”は“そもそも”という言葉で言い換えることもできる。
そして“根源”へと続く道のりは“進化”とも言えるだろう。

ここで『進歩』と“進化”の違いについて少し共有します。


以前、ブログにも載せた画像です。

『進歩』とは人間の意図により歩む道
それは“自然の法則”に沿わない道でもある。
しかし、便利で効率的な道でもある。


今、これからの時代に求められる道程の切り口は
おそらく“根源”、“そもそも”、“退歩”
そして“自然法則”であると思う。

だからこそ、今、僕は自身の“在り方”というものに
目の前の人の“在り方”というものに
先達の“在り方”に興味がある。

“在り方”は自らの意志のようなもの。
“生き方”は他者からみたその人の“在り方”のかたち。
と僕は定義と言ったら強いけど、そう理解している。

○●今、僕が興味あるもの○●
・初期仏教
・先住民の世界観、哲学
・陰陽五行
・禅、武士道
・アミニズム
・旧暦
・三島由紀夫
・自然
・発酵
・言葉
・パーマカルチャー

その上で
自分が世界をどう見るのか、見ているのかを知り
どういった視点で世界を見ていくのかを選択すればいい。

「押しつけ」は対立を生む。
例え、その「押しつけ」が真実であろうと。

自らの頭で考えていけば、自ずと“それ”はやってくる。

“矛盾”を抱え、“孤独”を抱き、その上で人と関わり
自らの世界を“在り方”を通して形作っていけば良いと思う。

もちろん、夢から“生きる”ことも良いと思う。
けど、僕は“在り方”からの生き方を選ぶ。

○●今、僕が興味のある言葉○●
・矛盾
・孤独
・「自ら」と「自ずから」
・諦め
・希望
・情熱
・退歩
・進化
・根源

===============

こんな感じです。
メモを若干読みやすいように変えていますが
語感はそんなに変わっていないと思います。

ここに書かれたメモを僕自身
もう少し深く見つめてみたいと思います。

街が動き出す頃

街が動き始める7:00頃

その頃に

カフェに入り1,2時間

本を読んだり

考え事したり

するのが好きです。

.

今朝は

4時前に目が覚めたので

1日がいつもより豊かな気がします。

4時過ぎから2,30分 坐禅

そのあと

屋上で日の出を向かえ

5時前から家の掃除

洗濯

そして

シャワーを浴び

朝食を食べ

6時。

ゆったりとし

ひと駅先まで歩いて電車に乗り


カフェに入る。

今朝はこんな感じでした。

今朝の坐禅

座布に坐り

坐禅を今日はしました。

まだ朝5時前ということで

鳥や虫の鳴き声がよく聞こえます。

この音は

昼間、僕の耳にあまり入ってこないものです。


昼間、車の音がうるさいから

聞こえないのだろう、と

思いました。

でも

きっとそうではなく

音はある

けど

僕の意識がそこに合わせていない

ということなのかも

しれません。

もしかしたら昼間

鳴いていないのかもしれないけど笑


どこに自分の意識を合わせていくのか

改めて

そのことの重要性に気付かされました。

朝の瞑想、坐禅の時間は

とても豊かな時間ですね。

夜にやるそれより

僕は好きです。

一日がより満たされます。

早起きすると得した気分にもなりますし笑

境目

朝と夜の

境目

好きだなぁ。

有り難う!

目覚め。夢。

おはようございます。

最近

この時間帯に

目が覚めることが増えてきました。


寝るのが早い日は

起きるのも早いですね。


そうそう今日は

変な夢を見ました。

変な夢というよりも

嫌な夢とでもいうのでしょうか。

今、住んでいるところ

昔、住んでいたところ

逃げ

息をひそめる

小さい頃の友人

テレビでしか見たことのない人

様々な人や場所が登場し

それを俯瞰してみているのではなく

主人公の視点で体験していました。


夢に具体性、感覚、息づかいを感じたりすることは

そう多くはないのですが

今日はそんな感じの夢でした。


うーん

なんだったんだろう…。


今日も一日楽しく!

2014年5月25日日曜日

僕の好きな歌。

Nat King Cole

『L-O-V-E』


僕の好きな歌のひとつ

優しい

温かい

最近

日本語で歌っている

L-O-V-E

があることを

知った。

日本語verも気持ちがいい






僕は字が好きだ。


自分が書いた字

他の人が書いた字

その人のクセが

感じられる。

その文字を書いた時の想いを

感じることが出来る。


最近

筆ペンやボールペンで

書いた手紙を

カメラで撮り

SNSのメッセージに添付している。


いつもそれじゃ大変だけど

でも

そういったかたちの融合もあると思う。


文字はその人を浮かび上がらせる。

不思議な感覚、静止画と音、そして風

今朝は瞑想というより坐禅をしました。

半眼というものが坐禅のひとつの特徴だと思います。

坐禅をしているなかで

今朝、世界が一枚の写真のようになり

小鳥の鳴き声が僕の内面から湧いて出てくるような感覚に包まれました。

とても不思議な感覚でした。

世界そのものが静止画となり

音、それ自体が自身の内面から湧いてくる。

けれども

風、それは僕の外を吹いている。

とても不思議な感覚。

なんだろう。


本当の僕

今、世界で起きている問題の根源にある問題

僕の在り方に名前を


というもの、それ自身が教えてくれるもの

その答えを僕は求めているのだろうか

だとしたら

やはり

僕は、言葉という存在を身近に感じ

それを用いて

僕を、僕自身の気配を感じたい。

あらわしたい。


まだ、少し頭が回らない。

文章にまとまりがないような気がするけど

今、この瞬間の妙な感覚を

この状態を記録。


ぐるりと世界はまわる

僕もまわる


では、また

日の出

おはようございます!

今朝は

なぜか

こんなにも早くに起きてしまいました。

まだ街は静かです。


少し考え事をして

瞑想をしてみようと思います。

久しぶりに

少し遠くまでお散歩も!


それでは

今日も素敵な一日を!

2014年5月24日土曜日

パズルのピース

僕が世界のピースなのか
世界が僕のピースなのか

僕というピースが世界を浮かび上がらせるのか
世界というピースが僕を浮かび上がらせるのか

僕が凸で、世界が凹なのか
世界が凸で、僕が凹なのか

世界が凸という視点
僕にはなかった

その一言が
深く深く
僕をゆさぶる


凸であり
凹であり
そのどちらでもない
そして
そのどちらでもある

それでいい
それがいい

僕の惹かれる人

糸井重里さんの本

『ボールのようなことば。』

に心に響く世界があった。

.
ひとりでいるときの顔が想像できる人と、
ひとりでいるときの顔が想像できない人とがいる。
ひとりでいるときの顔が、想像できない人とは、
どうにも仲よくなれそうにない。

個であること、孤であることから
逃げないで生きる人の姿というものには、
厳しい美しさがある。

そして、そのうえで、だ。
そしてそのうえで、
ひとりを怖れない人が、
人々の情けを感じるということがすばらしい。
ひとりを怖れない人が、
他のひとりの役に立とうと、走る姿は美しい。

Only is not Lonely.
ひとりであるということは、孤独を意味しない。
ひとりを怖れない者どうしが、
助けたり助けられたりしながら、
生き生きとした日々が送れるなら、
それがいちばんいいと思う。



この言葉に触れたとき

僕の心が揺れました。


ひとりを生きる



ひとりで生きる

は違う。

僕は孤独だけど

人が恋しい。


わかるひと、わかります。

それで良いんですよね。

きっと。。

有り難うございます。



小鳥のさえずり

おはようございます。

昨日は

身体を使っていたみたいです。

今朝、起きると

身体が少し重いです。。笑


今日は天気が良いですね!

窓を開けると小鳥が鳴いていました。

街が動き出す前

東京でも

自然の音が聞こえます。

日中は

耳を傾けないと聴こえませんが。

2014年5月23日金曜日

氏神さま

今朝、病院に向かう途中

紫陽花を見かけました。

すると

次々に

お花や草、木々が目に入り

小さい頃

嫌な目で見ていたドクダミも

いとおしく思えました。

そして

空を見上げると…

アレッ

もしやあれは

『ケムケムさんやなかーい。』

ってなりました。

ケムケムさんとは

いわゆる

ケ ム ト レ イ ル

です。

そうです。

トンデモ、陰謀と

言われているアレです。

真実は別に僕はどちらでも

良いのですが

"他の視点"を知る

という見方が出来るので

有り難い存在です。

でも

あれは普通の飛行機雲かもなぁ。笑

そして

氏神さまへ日頃の感謝を伝え

街へ繰り出しました。

2014年5月22日木曜日

根津、千駄木

今日は

往来堂書店に行き

文庫本葉書ともうひとつ本を買いました。

そのあと

根津神社に行きました。

やはり根津神社は

とても居心地の良い空間ですね。

そこで

文庫本葉書をあけました。

「人間の建設」小林秀雄、岡潔

うーん、これは

普段の僕では手にとらない本だなぁ。

やっぱ

こういった偶然の出逢い

大切ですね(^^)

2014年5月21日水曜日

その先にある光

有り難う

本当に有り難う

あなたの輝き

あなたのゆらめき

あなたの生き方


僕は救われました。


大丈夫

きっと大丈夫

大丈夫だから。


ごめんね

強がんなくていいんだよ

もう十分

君は孤独を味わった。

苦しんだ。

だからもう

大丈夫だよ。

怖がらなくていいんだよ。

きっと

いつか

君を、君の全てを理会し

包み込んでくれる何かが

現れるから。


苦しい

苦しいのはわかる

踏み出せない

踏み出せないのはわかる


君は大丈夫

もう大丈夫

しっかりと生きな

必ずその全てを受け止めてくれる

何かが現れるから


誰にも言えない

深い闇を受け止めてくれる

あなたに出会えるから


僕は僕を愛します。

有り難う。

自分らしさって

自分らしさって

きっと

自分じゃ絶対にわからないものだと思う。



自分らしさは自分の中にはない

たぶんこれが

僕の肌感覚に近い表現。



だから

自分らしく生きようと思っているうちは

自分らしくないと思う。


人に

「●●らしいねぇ」とか

言われる経験を積んで

感覚的に

あー、これ自分らしいかも

って気付くことはあると思う。

でもそれは

自分の中に

他人の思考が入っているからこその気付き。

だから

自分らしさは自分の中にはないよ。

結果として自分らしさは自分の中にあるけど

それはあくまで結果であって

はじまりではない。



どう在りたいか

というものは

自分らしさというものに

最も近い

自分自身。

だけど

それは

近いだけで

決して自分らしさではない。

それは

らしさではなく

その人自身

その人が抱えているもの

だから


その人らしさは

その人の思考から離れたところに存在する。


ただ

その人が限りなく広い客観視が出来る人であれば

話は少しずつズレていくけど

そういう人は多くない(はず)。


だから

自分らしく生きる必要はない。

後々

あー、これ自分らしいな

って色んなものを通して気付くくらいが

傷つかなくてちょうど良いと思う。


どう在りたいか

それが自分ができる精一杯の「自分」らしさ

在り方自分らしさ

出発点も到達点も違うけど

混ざり合う要素は大きいと思う。


とにかく

自分らしく生きよう

なんて

考えに

支配されなくていいよ。

人によっては苦しむだけだから。

それで苦しまない人が

苦しまない時に

その選択をすればいいだけ。


何だか難しい

らしさ

他人に任せて

自分にとって違和感の少ない生き方をすればいいと思う。

僕は自然体に。

(こんなこと言っているけど、僕は別にこの意見に捉われてないし捉われたくもない。。といっている自分にも捉われたくない。。。これがエンドレスに続く感じ。。。。という自分を肯定する自分にも捉われたくない。。。。。うひょ…笑)

ポジティブについて

『前向きに生きよう』

『プラス思考でいこう』

『感謝できることを見つけよう』

どれも

良いのですが

人はきっと

そう言われても

『でも・・・』という時期があると思います。

そういう時は

無理にポジティブにならなくても良いと僕は思います。

だって

自分に嘘をついてまで

明るくする必要ないじゃん。

そもそもその一言で

すぐにポジティブになってしまう悩みだとしたら

それは

大したものじゃないと思います。

もちろん

その時は大したものだろうけれども…。


それに

本当に

前向きな時って

『自分は前向きだ』

とかそういったことを

意識してないと思います。

というか

そんな必要ないと思います。


あと

本当に前向きだとしたら

努力するとか

前向きに生きよう

そういったような言葉が

付随してくることもないはずです。

前向きに努力する

前向きに生きる

という時点でそもそも前向きじゃないし。

前を向く、向こうとしているときではあると思うけど。



思うに

本当に前向きだとしたら

何もしない

何をしなくても大丈夫

何を言われても大丈夫

っていう状態になってると思う。

だって

前向きってそれくらい

どーんとしてないと

前向きじゃないでしょ。


うーん

前向きの定義とポジティブの定義と

自由の定義がごちゃごちゃになってきた笑笑


はい、メモでした〜。

考えない、ということ

人は一日に15万回ほど選択をしている

と、どこかで読んだ記憶があります。

数字がそれだったか定かではないです。

毎瞬毎瞬

アレをやる、コレをやる

アレをしない、コレをしない

ということを意識、無意識に関係なくやっているとすれば

自然と15万回くらいいくのでしょうね。


さて、

人は『考える』ことから

離れることが出来るのでしょうか。


僕は

瞑想をしていますが

瞑想をしていると

いかに自分が考えているか

そのことに驚きます。

考えない

という瞬間が今はたぶん

ほんの一瞬あるかないか

という感じです。

そのほんの一瞬を

ちょっとずつちょっとずつ

増やしていきたいです。


人が

何をしてきたか

ということも大事ですけど

何をしてこなかったか

何をしないと決めたか

そのことを

知るのも大切なことだと思います。

する、してきたというポジティプな面だけではなく

しない、やめたという一見ネガティブに見える面にも

その人の香りがあると思います。


今日は雨です。

そして

今日から二十四節気でいう

小満です。

陽気の兆しが徐々に

兆しを超え

草木が満ち始めるころ。

素敵な小満の15日間になりますように


今日も楽しく。

2014年5月20日火曜日

突きつけられる現実

世界というものに対し

様々な解釈が出来る。

世界は3次元である。

世界は3次元を超える。

平行世界がある。

世界は自分が作っている。

人は自分の望む世界しか見ることができない。

運命のもと生きるしかない。

宿命を抱え生きる。

世界は愛に溢れている。

世界は絶望に満ちている。

世界の本質はゆらぎである。

そのどれもが

僕は正しいと思う。

その上で叫びたい。

僕が生きるのは

今、この瞬間である

と。



毎日

お見舞いに行っていると

本当に色んなことを考える。

僕は

おばあちゃん子だ。


小さい頃

とある理由で

僕は祖父母に育てられた。


現実というものは

現実であり虚構でもある。

しかし

改めて言う。

僕が真に生きる場は

この世界である、と。

同時に僕は僕自身の世界を生きているけど

今は

この世界というものを

深く深く噛み締めたい。



小さい頃の

学生時代の

深い喪失感

孤独を思い出すと

今でも

刃物を自分へ向けたくなる。


あの日

僕は

死ぬことが出来なかった。

生きたいから生きているという感覚は

最近までなかった。

ただ僕は死ななかっただけだ。

死ねなかっただけだ。

自分を傷付けることの愚かさ

死ぬことから逃げたことに対するやりきれなさ

僕は人が思うほど

強くない。


今でもたまに

あの頃の感情が僕を苦しめる。

それでも

僕は生きようと思う。

人は温かい。

有り難い。

嫉妬したりしちゃうけど

その人たちがいなければ

僕は生きることを放棄していた。


だから

本当に本当に

感謝している。



病院の雰囲気が僕は怖い。

それでも

僕は毎日通う。

僕にとって



生きるとは

そういうことだ。

思考の外の自分にとって生きるとは

根源からの欲求とは

そういうことだ。

スティル・ライフ、雪の描写が美しい

この本に出会ったのは

海猫沢めろんさんの

『頑張って生きるのが嫌な人のための本』

を読んだからです。

最後の方に

スティル・ライフの引用が出てきて

そこに書かれていた言葉が

僕に刺さりました。

−−−この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
(略)
大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ、
たとえば、星を見るとかして。−−−

なんと

美しい描写なのだろう…。

一瞬で

心が引き込まれ

気付いたら書店に足を運んでいました。


スティル・ライフ

雪の描写が素晴らしい。

−−−雪が降るのではない。雪片に満たされた宇宙を、ぼくを乗せたこの世界の方が上へ上へと昇っているのだ。−−−


人と人は

どのようにして

わかり合うのだろう。

そもそも

わかり合う必要があるのかどうか

この作品に触れているとわからなくなる。


言葉に依らない関係性

というものが

あるのかもしれない。


言葉の美しさを

著者の感性の豊かさを感じた作品でした


エディプスの恋人

エディプスの恋人

という本を読んだ。

数ヶ月前

往来堂書店で購入したはいいものの

読まずに本棚にあったもの。


筒井康隆さんの本

エディプスの恋人

どうやら

七瀬三部作の最後らしい。

三部作なるものを

一度も読んだことがないので

それを知りなんだか

変な感じがした。


『エディプスの恋人』

"意志"とは何か

『瑠璃色の涙』

それと同じ

それ以上の

感覚に支配される。

僕が"知っている"けど

"知らない"ことが

そこにはあった。

だた

『瑠璃色の涙』と違うのは

"虚構の圧倒的現実性"だと思う。

今、このタイミングで

この本を読んだ

ということに

必ず何らかの

意志があると

感じちゃう僕でした。

ありのままを疑う。

ありのままに生きること



それを表現すること

は違う。

表現は

直球に少し変化を加えるのが面白い。

僕と俺

おはようございます!

僕は

俺になれなかった。

今から俺になるつもりはないよ。

僕は僕で

そして

僕は自分で

いこうと思うんだ。

思えば小学生の時

みんなが

『俺』になっていった。

あれから10数年

僕は未だに僕。

たまに自分。

中学生のとき

迷いに迷って

僕は『おいら』になった。

けど

違和感だらけで

おいらは『僕』になった。

それからずっと

僕は僕。

いいの

きっと

これから

僕、僕らが世界を救うから(笑)

2014年5月19日月曜日

自分の限界

やっぱり

人には

限界というものが存在すると思う。

もちろん

数年後

今の自分とは全く違う自分になることは出来るし

思いもよらない人生を送ることは出来る。

というか

その方が多いと思う。

けどやっぱり

僕は

人には

ひとりひとり

違う限界というものがあると思う。

どんなにあがいても

絶対に超えることのできない

限界。


その限界の存在を知り

諦めるか

それでも

果敢に挑むか

その違いは大きいと思う。


僕の限界は…

おやすみなさいZzz…

果たして僕は真に【矛盾】を愛することが出来るか

【矛盾】

最近

矛盾を愛することができるか

という問いが

僕の思考の一部に存在し続けている。

結論から

先に言うと

僕は

矛盾を愛することが出来る人が孤独を抱え

ありのままを生きることができると考える。


もちろん

それ以外にも

そこに到達することは可能だし

そもそもそこを目指す必要はない。

でも僕は

言葉について常日頃考えているから

言葉の観点からこの問いについて向き合いたい。


なぜ

現代社会は矛盾を嫌悪するのか。

私見だが

矛盾というものは

合理的でないし効率的ではないから嫌悪される。

そして

矛盾を解消、超えるためには

思考しなければならない

つまり

自らに依る必要がある。

これは

現代の教育方針とは袂を分かつ。

答えのない

いわば

自ら答えを求め

自ずから答えを得る

そのことを現代の教育は求めない。

思考しない人間は

支配者にとって都合が良い。

資本主義社会において

都合の良いニンゲンが生まれることは

ある世界の人にとっては嬉しい。


現代

矛盾というものは

反対の意味で神話化され

否定されてきた。

しかし

僕は思う。

現代が抱える問題を止揚させるためには

矛盾を抱く必要があると。

そしてそのためには

【言葉】に含蓄される【動き】というものを

意識する必要がある。


日本語には言霊というものがある。

これは

日本人が言葉というものに

“生”を感じていなければ

生まれてこない発想である。

違った表現をすると

何ものかの“息づかい”を感じているからこそ

生まれてくる発想である。


言葉というものは

境界線を創り出す作業でもある。

それは

結果として違いを強調する。

今は違いを強調するあまり

本来の境界線から意味が離れ

それが囲いの域まで達してしまった。

言葉とは、境界線とは何か

今一度考える必要がある。


そもそも言葉とは

動的な何かに対し

ゆるやかな生け垣を敷くものではないか。

動的なものがいつしか

静的なものに変化していった。

そのどちらも

言葉には必要だ。

しかし

今は明らかに

一方に偏っている。

偏りが常なるものになるのは

恐ろしい。

ゆらぎがあっての物事ではないのか。



人は戸惑う。

正反対のことが

世の中では主張される。

どれもそれらしい根拠とともに。


人は

敵を見出すことを通じ

自らの群れを認識することがある。

自分とは違うもの。

自分と同じもの。

これは

いわゆる

二元論だ。


二元論は世界を飛躍的に進歩させた。

しかし

それは進歩であり

進化ではない。

進歩は矛盾を肯定しない。

なぜなら

目に見えるもの、物質的なものが

進歩にとって第一義だからである。


では

進化はどうか。

進化は自然の摂理というものの中で

発展していく

いわゆる

大いなるもの

イメージをしている。


デカルトに端を発する二元論的思考は

確かに

社会を身体面で大きく進歩させた。

しかし

一方を良しとする思考は

根本からの対立を生んだ。

戦争が【正義】のもと

行なわれるのが良い例だ。



今こそ

僕は言いたい。

『矛盾を愛そう』と。

『言葉には“動き”がある』と。

『二元論は限界だ』と。


そして

僕は思う。

このような発言をしていてアレだが

僕自身

自らの思考に捕われては意味がない、と。

信じて疑う。

これこそが

ヘーゲルの弁証法の真意であり

田坂広志さんがよく引用する螺旋的発展の法則であり

仏教のいう三性の理である、と。

自らに依り、自らを自ずから疑い、そして信ずる。


自分のなかにある【矛盾】を否定することは避けたい。

相反する感情があって当然ではないのか。

僕は人だ。

そんな自分と向き合ってこそ

人は孤独を抱え

人と繋がれるのではないだろうか。


よくわかんないことになった。

とにかく

ひとつだけ。

矛盾あっての自然体だ。



自己正当化(笑)

だから僕は

アナログもデジタルも

不便も便利も

出る杭も出ない杭も

思考も行動も

やれ、やめろも

全て

OK牧場と

言えるようになりたい←

そもそも孤独を愛する必要の可否についてもあるけど

それは置いといて…笑


我唯足知

ってまだまだ先やなぁ。。笑

初夏の鎌倉便り

こんにちは〜

今日は

いつもより早く目覚めたので

鎌倉に行きました。

北鎌倉で下車

スターバックスコーヒー鎌倉御成町店を

目指します。

スタバに着くと

いつも通り

抹茶ティーラテ・トールサイズを注文

そして

いつもと同じ席に座り

本を読み



そして

【物語】

【矛盾】

について考える。

店内が混んできたので

イヤホンをし528Hzの音楽を聴きながら

ペンを走らせる。

少し

ぼーっとして

店を出る。

今日は気分的に

海な感じだったので

由比ケ浜をとりあえず

目指す。

途中、このような景色に出会う。

でも

適当にぶらぶらしていたので

ここがどこだかわからない笑


このような光景をよく見かけるのだけど
この石にはどのような意味があるのだろう。


やっぱ小径はうきうきわくわくしますね!


これは人工的に植えられたものなのか
それとも自然に発生したものなのか
そのどちらでもあるのか
どちらでもないのか
疑問に思いパシリ


そして


由比ケ浜に到着。

ここでは

しばらくの間

ぼーっとしていました。

外房の海を見て育った僕としては

ここから見える海は

穏やかです。

海を見たからには

山へ行こう

ということで

まずは鎌倉駅へ戻ることに。

そしたら

駅周辺は人で溢れていて

一気に現実感を帯びてきたので

人ごみを避けるように

北鎌倉(だと思われる)の方へ

てくてく歩く。

亀ケ谷坂というところを抜けると

建長寺という看板が目に入る。

そういえば一度も訪れたことがない…。

というわけで

行ってみた。


緑と空がいい感じです。


蘭渓道隆(だったかな)が作ったお庭


名前忘れたけど、なんとか院へと続く道


半僧坊へと続く道の途中に出会った子


思わずパシリ


半僧坊、建長寺裏山から
富士山がこの先に現れる日もあるらしい


正統院(だったかな…)


そして

円覚寺へと向かう。

その途中

偶然見つけたお店

喫茶ミンカ

素敵です。

ひっそりと佇んでいました。



そして

お昼過ぎに東京へと戻ったとさ。

体と魂

利便さは

体を運ぶが

魂はおいてけぼりに。

時にはゆっくりと

体と魂を共に

運ぶときが必要だと思う。

僕は

利便性も

不便も

好きです。

どちらか

一方を是とし

どちらか

一方を非とする

思考は苦手です。

どちらもあるから

螺旋を登り

次へと行ける。

雲さん

おはようぎざます(^^)

今朝は

曇りですね!

晴れの一休み

といった感じでしょうか!

昼間は晴れるのかな。

今日も一日楽しく。

夜の気配

こんばんは~

今日は

身体を使いました~。

ふくらはぎが痛いでやんす。

23時過ぎに家に着いて

部屋に入って窓を開けると

そこには

お月様が

いました。

またまた

昨日より

低い位置にそれはあり

そして

より

東側にありました。

少しだけ瞑想して

寝ます。

おやすみなさい(-.-)Zzz・・・・

と思ったら

MUSIC JAPANに

SexyZoneがでることを

知ってしまった。。

録画した。

おやすみなさい(-.-)Zzz・・・・

2014年5月18日日曜日

気取ってエッセイ

【光と風の音。】

僕は

ゆらめきながら

あなたに近付いた。

僕がゆらめくと

小さな風が起こる。

その風が

あなたを包む

小さな春の風に

なると僕は嬉しい。

お日様に負ける僕が

現れるのは

明け方と夕方

その頃、吹く風は

僕のあるがままの姿。

あなたは光を編み

僕は風を紡ぐ

あの香りを乗せながら

幸せっていう言葉がなければなぁ。

幸せ

っていう

概念がなければ

不幸せ

っていう

概念もなかったのかな。

そういう世界は

きっと

今の価値観からいうと

良くも悪くも


の世界になるんだろうなぁ。

でも

僕は

その世界を見てみたいかも。

あるがままの

ありのままの

自然体の

世界を。

お月様

今夜のお月様も

綺麗ですね。

都内

星もたくさん見えます。

昨日と比べたら位置が低くて

部屋に差し込む

月明かり



まばゆいです。

腹式呼吸

おやすみなさい(-.-)Zzz・・・・

2014年5月17日土曜日

てくてくと

今日は

歩いた。

半分

散歩のようなもので

あとの半分は

群衆の歩き。

確か須藤元気さんだったと思うが

50分歩けば、大抵の悩みはどうでもよくなる。

といったようなことを言っていた。

おそらく

ある意味で

瞑想状態になるのだと思う。

僕は散歩が好きだ。

目的地のイメージを持って

あとは

直感に従い適当に歩く。

慣れてくると

行き止まりの道

というものが

わかってくるから面白い。

深い意味もなく僕は歩く、ひたすら歩く。



粋と野暮

江戸の言葉に

"粋"と"野暮"

というものがあります。

これは

言葉では説明できるものではなく

書物や人から

感じ取るようなものだと思います。

先日、歩いていたら

ある看板を見かけました。

これは

"粋"と銘打っているので

僕は"野暮"だと思います。

思うに

"粋"とは

説明するようなものでもないし

できるようなものでもない。

ということは

つまり

この文章自体が"野暮"

うひょひょ。

最後に

目に留まった看板を。

これです。

エッセイ

最近

エッセイ

というものを

気付いたら読んでいることが多い。

おそらく

書いた人が

僕の目の前に

登場してくる感覚が

好きなんだろうなぁ。

勝手に脳内で友達になっている

みたいな!

僕もだらだらと

書いてみようかなぁ。

空が、緑が気持ち良い~

今日は

ものすごく気持ち良いですね!

さいこー\(^o^)/

自然と緑と青に目が奪われてしまう。

この風が

運んできてくれるものは

何だろう!

うきうき

光と影の境目。

おはようございます。

今朝は

5時10分頃に

目が覚めました。

もう既に

太陽さんは

上がってて

日の出の早さを痛感してます。

でも

まだ

夏とは違い

この時間は

風が涼しくて

空気感が

優しくて

好きです。

夜と朝の境目

夕方と夜の境目

その時間帯の

雰囲気が

僕は

とっても好きです(^^)

癒されます!


それでは今日も一日楽しく!!

月が綺麗ですね。

I LOVE YOU.



月が綺麗ですね。



訳したのは

夏目漱石

今夜の月も綺麗ですね。

満月の次の日

月明かりの下

少し

瞑想して

おやすみなさい(-.-)Zzz・・・・

2014年5月16日金曜日

妄想世界をつくる。

自分の感性で空間をつくる。

そこに常識というものは

存在しない。

否定されようが

僕は僕の信ずるものを信じ切る。

この人生

僕が主役。

と同時に

脇役。

1つくらい

僕が主役の人生があってもいいと思う。

人は思うほど

見てないし

責任をとってくれない。

すべては

自分に収斂する。

何が僕であるか。

僕が何であるか

ではなく

何が僕であるか

それが

大事。

わかりやすさを追求すると

本当に伝えたいこと

具体的になりすぎたり

分かりやすすぎたりすると

何だか

伝わらなくなってしまう

そんな気がする。

流行りじゃないけど

いわゆる

ノンバーバルな面

それが

わかりやすさ

とともに

薄れていってしまうような気がして。

ちょうど良い

塩梅

というのが

どこなのか

人によって違うから

簡単ではないけど

だからこそ

面白いんだろうあぁ。

何て言うのかな

たぶんだけど

伝えたいイメージの

気配のような

ものを

感じ取ってもらえるような

在り方が

人との関係性において

理想に近い

気がする。

先にある世界。

数日かけて

読んでいる本に

『フルサトをつくる―帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方―』

という本があります。

僕の頭のなかに漠然と

存在している何かを

既に実践し

本にまとめている人がいる

ということは

どこかで

僕は

その人たちに

引っ張られている部分もあるのだろう。

まだ

途中なので

考察は

読み終えてからしたいと思うけど

文字がすーっと入ってくる箇所と

全く受け付けない箇所がある

僕の準備がまだできていない

もしくは

意識が集中していない

ということ

なのかな。

心に火を。

【レールの上をどこまでも行く】電車の運転士編

『敷かれたレールの上の人生なんて!という台詞を、テレビドラマとか漫画とかでよく見聞きする。
実際に敷かれたレールの上で仕事をしていると、そこに人として生きていくヒントを得ることがある。
急ぎすぎてはいけない。
遅すぎてもいけない。
決められた速度で、決められた場所に停まるのは案外難しい。
一秒という時間を感じ、今日という一日を大切いする。
一両一両、電車がつながっているように、人と人とのつながりを感じられるんだ。』


【あとがきにかえて】編集者編

「人は、なぜ働くのか?」

日常のあらゆる分野でIT化が進み、私たちの生活は便利になり、 豊かになり、カンタンに世界とつながるようになりました。 しかし、期待されていたような時間的な余裕が生活の中に 生まれることはなく、むしろ、以前に比べて、社会は猛烈に 忙しくなっています。 そして、私たちは、あらゆる物事への忘却スピードを 加速させています。毎日の中で出会う物事、人のこと だけではなく、自分のことさえも忘れはじめている気がします。

だからこそ、今、冒頭の問いかけが必要なのです。

なぜ、働くのか?
―――――――
『心に火を。』

この本に登場してくる物語には

大きな成功談



深い失敗談

というものが

出てきません。

出てきたとしても

それについて

共感を得ようという

物語を語っている人の感情が

見受けられません。

つまり

日常にある

誰もが手に届きそうなお話。

この本を

読んでいて

日常

という存在を

一所懸命に

生きること

すなわち

心に火を

ぼわっと

つくこと

つけること

いや

ついていること

つき続けること

それが

人が生きる上で

美しい

瞬間であり

最高の瞬間なのだなぁ

と思いました。

この本には

素敵な

空気が流れています。

本を読み終えたとき

目の前には

大空と草原

そして

愛する何かが

感じ取れることと思います。

すべて

自分を成長させてくださる

先生なんですよね。

常に

そういった意識を持っていたいです。

有り難うございます。

修身。

死に方は決まっている。

あとは

身を修め

自身の在り方

を追及し

場を見つけ

それらで

何が僕であるかを

求め

生を燃焼させ

円環させ

自ら絶つのみ。

それ自体が

自ずから

訪れれば

悔いなし。

そして

このことを

人知れず

行う。

(ブログに書いている時点で、まだ認められたい欲求から放たれてないのだけれども。いつ
の日のか"粋"を目指し。)

病院から見える空を見ながら。

手術は無事終わりました。

有り難う、本当に有り難う。

手術。

大丈夫だと

わかっていても

手術は

心配になりますね。

良くなりますように。

2014年5月15日木曜日

そうそう、ひとつだけ決めていること。

僕には

ひとつだけ

決めていることがあります。

たぶん

それらしきことは

どこかに

書かれている

ことだけど。

それは

僕は僕の死ぬ瞬間を自分で決める。

ということ。

例え

それが

病気や事故であろうと

死ぬ瞬間を他に委ねることだけはしない。

自らの生の燃焼の終焉は

自らが決める。

それを

僕は決めています。

こう書くと

粋がっているようにみえるし

カッコつけているようにみえるけど

僕に

とって

一番重大な瞬間は

【生】と【死】の

境界線

なんです。

空が

夕日に

なっていくように

曖昧な【生】と【死】の

境目を

自らの意志で

断つ。

これしか

僕は出来ないから。


でも

このような覚悟のようなものは

先の日本人の多くは

持っていた。

その人たちの

根源に触れたとき

自然と

出てきた感情が

それ

でした。



それが

僕の中に

すとんと

落ちたとき

僕の中の

何かが

ぷつん

となりました。

綺麗に。


では

改めて

おやすみなさいZzz…