【矛盾】
最近
矛盾を愛することができるか
という問いが
僕の思考の一部に存在し続けている。
結論から
先に言うと
僕は
矛盾を愛することが出来る人が孤独を抱え
ありのままを生きることができると考える。
もちろん
それ以外にも
そこに到達することは可能だし
そもそもそこを目指す必要はない。
でも僕は
言葉について常日頃考えているから
言葉の観点からこの問いについて向き合いたい。
なぜ
現代社会は矛盾を嫌悪するのか。
私見だが
矛盾というものは
合理的でないし効率的ではないから嫌悪される。
そして
矛盾を解消、超えるためには
思考しなければならない
つまり
自らに依る必要がある。
これは
現代の教育方針とは袂を分かつ。
答えのない
いわば
自ら答えを求め
自ずから答えを得る
そのことを現代の教育は求めない。
思考しない人間は
支配者にとって都合が良い。
資本主義社会において
都合の良いニンゲンが生まれることは
ある世界の人にとっては嬉しい。
現代
矛盾というものは
反対の意味で神話化され
否定されてきた。
しかし
僕は思う。
現代が抱える問題を止揚させるためには
矛盾を抱く必要があると。
そしてそのためには
【言葉】に含蓄される【動き】というものを
意識する必要がある。
日本語には言霊というものがある。
これは
日本人が言葉というものに
“生”を感じていなければ
生まれてこない発想である。
違った表現をすると
何ものかの“息づかい”を感じているからこそ
生まれてくる発想である。
言葉というものは
境界線を創り出す作業でもある。
それは
結果として違いを強調する。
今は違いを強調するあまり
本来の境界線から意味が離れ
それが囲いの域まで達してしまった。
言葉とは、境界線とは何か
今一度考える必要がある。
そもそも言葉とは
動的な何かに対し
ゆるやかな生け垣を敷くものではないか。
動的なものがいつしか
静的なものに変化していった。
そのどちらも
言葉には必要だ。
しかし
今は明らかに
一方に偏っている。
偏りが常なるものになるのは
恐ろしい。
ゆらぎがあっての物事ではないのか。
人は戸惑う。
正反対のことが
世の中では主張される。
どれもそれらしい根拠とともに。
人は
敵を見出すことを通じ
自らの群れを認識することがある。
自分とは違うもの。
自分と同じもの。
これは
いわゆる
二元論だ。
二元論は世界を飛躍的に進歩させた。
しかし
それは進歩であり
進化ではない。
進歩は矛盾を肯定しない。
なぜなら
目に見えるもの、物質的なものが
進歩にとって第一義だからである。
では
進化はどうか。
進化は自然の摂理というものの中で
発展していく
いわゆる
大いなるものを
イメージをしている。
デカルトに端を発する二元論的思考は
確かに
社会を身体面で大きく進歩させた。
しかし
一方を良しとする思考は
根本からの対立を生んだ。
戦争が【正義】のもと
行なわれるのが良い例だ。
今こそ
僕は言いたい。
『矛盾を愛そう』と。
『言葉には“動き”がある』と。
『二元論は限界だ』と。
そして
僕は思う。
このような発言をしていてアレだが
僕自身
自らの思考に捕われては意味がない、と。
信じて疑う。
これこそが
ヘーゲルの弁証法の真意であり
田坂広志さんがよく引用する螺旋的発展の法則であり
仏教のいう三性の理である、と。
自らに依り、自らを自ずから疑い、そして信ずる。
自分のなかにある【矛盾】を否定することは避けたい。
相反する感情があって当然ではないのか。
僕は人だ。
そんな自分と向き合ってこそ
人は孤独を抱え
人と繋がれるのではないだろうか。
よくわかんないことになった。
とにかく
ひとつだけ。
矛盾あっての自然体だ。
と
自己正当化(笑)
だから僕は
アナログもデジタルも
不便も便利も
出る杭も出ない杭も
思考も行動も
やれ、やめろも
全て
OK牧場と
言えるようになりたい←
そもそも孤独を愛する必要の可否についてもあるけど
それは置いといて…笑
我唯足知
ってまだまだ先やなぁ。。笑
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